電通を創った男たち #37

日本のCMの育ての親 尾張幸也(1)

  •      r
    伊藤 徳三

「もう活字はいいだろう。どうだ、電波の仕事をしないか」

 

尾張幸也の青年時代の写真はない。太平洋戦争の戦火で大半が焼けてしまった。後年の穏やかな面持ちは人々の知るところだが、若き尾張は人一倍強い眼差しを持つ男だったのではないか。筆者はそうイメージしながらこの稿を書き進めた。

  1997年、76歳の尾張幸也
 
1997年、76歳の尾張幸也

昭和27(1952)年、31歳の尾張幸也は人生の転機を迎えていた。単に勤め先を河出書房から電通に変えた、というような簡単なことではない、大きな変化であった。文学好きで編集一筋だった活字人間がこの年を境に、見も知らぬ電波の世界に飛び込んでしまったのだ。尾張の心に火をつけたのは、やはり吉田秀雄電通社長その人だった。「やはり」と言うのは、吉田の誘いに応じて、まったく畑違いの業種から転じてきた人材が、この時期の電通には実に多かったからだ。戦前の広告界はことのほか人材が貧困で、有能な人材の多くは官界や金融界、大企業に流れてしまった。広告界の近代化を目指した吉田は社長就任以来、「濁った金魚鉢の水を入れ替える」つもりで、常に外の人材に目を光らせていたわけだ。戦後の引き揚げ、財閥解体や公職追放などで、有能な人材が所を得ていないという事情もあった。尾張が電通に入社したこの年、吉田は胸を張りこう語っている。「私は敢えて広告する。今日の電通位人材の集った私企業は他に類例がなかろう。しかも、これらの戦後入社の人材が、天稟の英質と多年高い舞台で身につけた経験を基礎にして、広告を理解し、これを終生の職業として身につけ、社内重要ポストの九割までを占めたのだから、今日の電通はもはや過去のものとは、まったく異質のものになったのだし、ひいては日本広告界は前古未曾有の高い価値を持つことができるようになるだろう」(永井龍男著『この人吉田秀雄』)。入社したての青年尾張が、大いに鼓舞されたことは想像に難くない。

尾張幸也と吉田秀雄の関係は、実は一ジャーナリストとその取材対象として始まった。河出書房の雑誌『評論』の編集者として銀座電通本社の社長室を訪ねた尾張を、吉田はこう口説いた。「これからは電波の時代だ。もう活字の方はいいだろう。どうだ、電波の仕事をしないか」。吉田の言葉には通り一遍ではない説得力があった。尾張は語る。「『また来い』と言われたので、その後伺ったら、ラジオ制作部長の木原通雄さんが吉田社長の脇にいるんですね。この方は戦前有名な政治部の記者で、大変な文章家としても知られている方でした」(『電通一〇〇年史』別冊『電通人たち』)。木原通雄、終戦の詔勅を起草した気鋭のジャーナリストとして、知る人ぞ知る存在だった。この「電通を創った男たち」シリーズの第1回に登場した、あの木原通雄である。当然のことながら尾張も、12歳年上の先輩ジャーナリストを知らぬわけがない。その木原が電通社員として吉田秀雄を支えている。銀座の電通本社ビルにあった録音スタジオを見学して、尾張は感じるところがあったようだ。初の民放ラジオ局が名古屋に開局してまだ半年、局だけでは番組制作に充分手が回らず、広告代理店である電通が数多くのラジオ番組を手がけていたのだ。「見ると実に活気があって、電波の仕事も悪くないなと思った。それで『お願いします』と言ったら、『すぐ来い』というわけです」。

昭和初期の銀座4丁目付近  
昭和初期の銀座4丁目付近
 

ここでいったん時計の針を巻き戻して、尾張の幼少から青年期までをふりかえってみたい。尾張幸也は大正10年、東京の生まれである。父は講談社の編集者・尾張真之介で「穂草(すいそう)」の号を持つ歌人でもあった。尾張は6人兄弟姉妹の長男であり、後の彼の家長的佇まいはこのころから備わっていたのかもしれない。少年期の尾張が呼吸した日本の空気は、大正デモクラシーがもたらした「自由」の匂いだっただろう。出版、演劇、美術、流行歌、映画、ファッション、ラジオ放送(NHK)といった文化領域全般で、人々は新しい試みに取り組んでいた。
2歳半の時に遭遇した関東大震災は大きな厄災ではあったが、明治の面影を残す浅草を衰退させるかわりに、銀座という未来志向の街を出現させつつもあった。幸也少年が時代環境から感じ取る漠然とした「自由感覚」に、きちんとした背骨を与えたのは他ならぬ父真之介だったと思われる。千葉の漁港銚子町に生まれた真之介の若き日の思いは、次の句ににじみ出ている。

秋一夜 なぎさの家に脱走をたくらむ子あり 知らで鳴く虫    穂草

いずれ日本国の通奏低音となる軍靴の響きを、このころ人々の耳はまだ聞きとっていない。しかし尾張が10歳の時に起きた満州事変を転換点として、リベラルな空気は急速に薄れ始める。ドイツ文学好きの青年尾張が、東京外国語学校(現東京外国語大学)のドイツ語貿易科を繰り上げ卒業したのが、昭和16年12月。まさに太平洋戦争勃発の当月である。「まだまだ勉強し足りない。もっと本が読みたい」。国家の都合で勉学期間を3カ月短縮された尾張は、帝国大学を目指す。東北帝国大学(現東北大学)の法文学部経済科、たった3人の入学枠に合格して翌年4月から学問の場に復帰できた。ところが勉学に専心できたのはわずか1年5カ月にすぎなかった。東條英機内閣の公布した「在学徴集延期臨時特例」に従わざるを得ず、尾張は昭和18年9月に東北帝大を仮卒業、海軍14期飛行予備学生として徴兵検査の後、同年12月神奈川県横須賀近くに駐在する「武山海兵団」に入団した。その後2年足らずの間に、14期の同期生から400名を超す戦死者が出るなどと、22歳の尾張の知るよしもない。

(文中敬称略)

第2回へつづく 〕

プロフィール

  •      r
    伊藤 徳三

    1945年東京生まれ。69年一橋大学社会学部卒。同年電通入社。クリエーティブ部門でCMプランナー、クリエーティブ・ディレクター、シニア・クリエーティブ・ディレクターを歴任。この間、カルピス、東芝、明治製菓、富士写真フイルム、花王などを担当。カンヌ国際広告映画祭銀賞、全日本CMフェスティバル大賞、ACC賞などを受賞。著書に『時代を映したキャッチフレーズ事典』(共著)。

バックナンバー

関連記事

続きを見る
ページ先頭へ