電通を創った男たち #39

日本のCMの育ての親 尾張幸也(3)

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    伊藤 徳三

コマーシャルって何ですか?

 

昭和20(1945)年8月15日、戦争は終わった。尾張は意味のある死を全うすることは覚悟していたと思う。しかし一方で彼が「うすらさむいすきま」と表現した軍隊の無意味なる束縛に対しては、我慢の限界が来ていたのではないか。終戦は少なくともこの二律背反から、尾張を解放した。尾張の抑え込んでいた学習意欲がまたメラメラと燃え上がり、復学せんとして東北大学に向かった。しかし法文学部や工学部、理学部の木造の建物はすべて焼け落ちていた。7月10日の仙台空襲の爪痕だった。

  にぎわう書店(神田の書店街)
 
にぎわう書店(神田の書店街)

やむを得ず東北大学は仮卒業のまま、昭和21年から世界社という出版社に勤め始めた。言論統制が解け、世は雑誌や新聞の創刊・復刊ラッシュとなっていた。『平凡』『中央公論』『改造』「時事新報」「東京タイムス」「日刊スポーツ」『主婦と生活』『リーダーズダイジェスト』などが相次いで刊行された。尾張二等水兵が想像したとおりNachkriegszeit(戦後)のEntfesselung(解放)によってKultur(文化)のAufhöbung(止揚)が起こっていた。世界社は講談社の関連社であったから、当時講談社の役員だった父の紹介であったかもしれない。編集者として歩み始めた尾張だったが、この出版社は3年足らずのうちにあっけなく倒産してしまう。しかし尾張は編集の仕事が面白くてならない。昭和23年6月に河出書房(現河出書房新社)編集部に入り、2年後には文化部長のポストも得ている。柴田錬三郎や太宰治などと付き合いがあったという。「昭和二十年代前半は、戦いの間におさえられていたエネルギーが一せいに形をもとめてふき出した時代。編集者としては、ほんとうに面白い時代に立ち会ったと思っています」(志賀信夫著『テレビを創った人びと』)。

 
 
創刊・復刊ラッシュ
 

そんな充実している時期に、電通社長の吉田秀雄と出会ったのである。なぜ尾張は「編集」という充実した仕事を、捨てられたのだろうか。吉田の説得力、抗しきれない魅力は論をまたない。でもそれだけではない、何かがここにはある。尾張は充実した仕事と引き換えに、いったい何を手に入れようとしたのか。より大きな自由ではなかったか。電波という未知のものこそ、彼が思い描いた「Kultur(文化)のAufhöbung(止揚)」の具体的な形だと直感したのではなかったか。このあと数十年にわたって未知の領域を走り続ける尾張の心には、やはり自由な編集者が住んでいたのだと思う。

私生活の上でもこの時期、尾張は新たなスタートを切っている。尾張が編集者として知遇を得ていた作家のひとりに、『三田文学』を舞台としている丸岡明がいた。彼は丸岡夫人の姪美和を尾張に引き合わせ、結婚話が整った。彼女もまた、岩波書店で『広辞苑』の編集に携わる出版人であった。媒酌人は「講談社中興の祖」と言われた講談社第四代社長の野間省一、主賓は『新・平家物語』を執筆中の吉川英治だった。「でもその時尾張は無職でしたのよ。河出書房は辞めておりましたし、まだ電通には勤めておりませんでした。これからどうするのかしらと思っておりました」。美和夫人はおおらかに微笑む。

 
 
「電通報」昭和26年8月15日版の記事
「社長命令 ラジオの知識を養え」

さて尾張が電通に入る昭和27年5月に、話は戻ってきた。NHKのラジオドラマ「君の名は」が話題になり始めたころだった。「木曜夜8時半には、銭湯の女湯が空っぽになる」という伝説まで生んだ、菊田一夫原作のラジオドラマだ。勢いがあったのはNHKだけではない。民放ラジオはこの年だけで全国に12局も誕生し電通も番組の企画制作に奔走していた。銀座本社ビル1階のブロックガラスのコーナーに、ラジオ録音スタジオも完成した。当時の「電通報」は、新メディアへの取り組みを熱っぽく伝える。「社長命令 ラジオの知識を養え―電通の矜恃と名誉の名に於て」。

尾張はラジオ企画制作部の企画課に配属となった。企画課は制作にタッチせず、せっせとラジオ番組企画を練り続ける。相棒の浅野英雄と毎日1案ずつ企画を立てていた。文学好きがここで役立ち、いままで読んだ数多くの小説をラジオ番組企画に仕立て上げた。浅野は後にテレビ番組制作会社C・A・Lの社長となり、「水戸黄門」や「木枯紋次郎」などの大ヒットを飛ばすが、尾張とラジオ番組を企画し続けたこの時期が大いに役立った、と回顧している(志賀信夫著『テレビを創った人びと』)。ラジオ番組だけを作るつもりで入社した尾張に対して、入社第1日目、上司の木原通雄部長は「コマーシャルを書け」と言った。ラジオ番組はわかるが、コマーシャルというものは聞いたこともない。「君の名は」をはじめとして、当時大ヒットしていたNHKのラジオ番組「二十の扉」にも「三つの歌」にも、コマーシャルなんて入っていない。「コマーシャルって何ですか」「まぁ、ラブレターだな、消費者に対するラブレターだ」。これが尾張の一生の仕事となるコマーシャルとの、最初の出会いだった。

(文中敬称略)

第4回へつづく 〕

プロフィール

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    伊藤 徳三

    1945年東京生まれ。69年一橋大学社会学部卒。同年電通入社。クリエーティブ部門でCMプランナー、クリエーティブ・ディレクター、シニア・クリエーティブ・ディレクターを歴任。この間、カルピス、東芝、明治製菓、富士写真フイルム、花王などを担当。カンヌ国際広告映画祭銀賞、全日本CMフェスティバル大賞、ACC賞などを受賞。著書に『時代を映したキャッチフレーズ事典』(共著)。

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