電通を創った男たち #40

日本のCMの育ての親 尾張幸也(4)

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    伊藤 徳三

テレビCM第1号は放送事故第1号

 
 
 
中部日本放送で使われた
精工舎の時報装置

民放ラジオの電波に初めてコマーシャルが乗ったのは、昭和26(1951)年9月1日のことだった。「精工舎の時計がただいま7時をお知らせしました」。中部日本放送が流した午前7時の時報だ。尾張の電通入社8カ月前のことだ。初期のラジオ・コマーシャルは局のアナウンサーが原稿を読み上げるスタイルが多く、聴取者の反発を考慮して内容もきわめて控えめだった。初のコマーシャル・ソングとしてつとに知られる「ボクはアマチュア・カメラマン」(広告主:小西六写真工業 作詞作曲:三木鶏郎 歌:灰田勝彦)にしても、社名や商品名が一切入っていない。こうしてわが国のコマーシャル事始めは、経験者ゼロのまま手さぐりで始まったのだ。

尾張の問いに「コマーシャルとはラブレターだ」と答えた木原通雄部長も言われた尾張も、どうすれば聴取者に受け入れられるか、実はまだよくわかっていない。ラブレターを受取った当の聴取者が、どう受けとめて良いものやらわかっていないのだから。尾張のコマーシャル処女作トリスウイスキーは、木原が手を入れてこうなった。“古来、東洋では酒を百薬の長と申しますが、西洋でウイスキーというのは、命の水ということ。古来、考えるところは東西相同じである。ところでトリスは……(尾張の記憶による)”(志賀信夫著『テレビを創った人びと』)。活字人間同士でアタマを突き合わせている様が想像されてほほ笑ましいが、しっかりとコマーシャル・アイデアの種が仕込んであるところはさすが、と言うべきだろう。

コマーシャル経験を2年半積んだ昭和29年、尾張は企画課の仕事として『ラジオ・コマーシャルの研究』(日本電報通信社出版部刊行)をまとめる。日本全国で民放ラジオ局の開局ラッシュが続いたこの時期、まさにタイミングを得た企画だった。こうして企画課での3年間、毎日のようにラジオ番組やラジオ・コマーシャルの企画を立て、「ラジオとは」「コマーシャルとは」を考え続けるうちに、尾張の中に徐々に「コマーシャルなるもの」の概念が形成されていったようだ。

 
日本テレビ開局の祝辞を述べる吉田茂首相
 

昭和28年2月1日午後2時にNHKがテレビの本放送を開始、最初の番組は歌舞伎の中継で、これを受信したテレビ受像機はたった866台だった。民放では日本テレビが同年8月28日に放送を開始、第一声は「JOAX-TV、こちらは日本テレビでございます」。続いて開局記念式典の実況が生中継され、当時の内閣総理大臣吉田茂が開局の祝辞を述べた。VTR録画技術のない時代だから、ニュース番組や歌謡番組、劇場中継など生放送がずらり並んでいる。副調整室が緊張からほっと解放されるのは、数少ないフィルム素材放映の時間だけだ。フィルム素材は、一部コマーシャルと、映画「上代の彫刻」「天竜川」、それに夜9時からの開局記念式典再放送。この間は投写室の映写技師が緊張のバトンを受け取る。とくにこの初日は、朝一番で総理を撮影、すぐに現像所送りしてフィルムが乾く間もなく局戻し、編集したてのフィルムを映写機にかけるというアクロバティックな展開が控えていた。そのせいか、映写技師は普段では考えられないようなミスを犯してしまう。

日本で初めて電波に乗るべく用意されていたテレビ・コマーシャルは、精工舎(現セイコーホールディングス)の時報CMだった。東京銀座4丁目の和光屋上にそびえる高さ9メートルの時計塔が映し出され、1メートル強の長針が短針にピタッと重なって正午を伝える…はずであった。そのフィルムを映写技師が裏返しに映写機にセットしてしまったのだ。ブラウン管にはサウンドトラックがチラチラ映るのみ、スピーカーからは何のメッセージも発せられなかった。ただし時報音だけは映写機とは別の機材から出したので、時報の目的はなんとか達成できたという。

こうして日本ではラジオ・コマーシャル同様、テレビ・コマーシャルもまた手さぐり状態でスタートを切った。尾張がテレビ・コマーシャルの舞台に登場するまで、あと2年の歳月を要する。

(文中敬称略)

第5回へつづく 〕

プロフィール

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    伊藤 徳三

    1945年東京生まれ。69年一橋大学社会学部卒。同年電通入社。クリエーティブ部門でCMプランナー、クリエーティブ・ディレクター、シニア・クリエーティブ・ディレクターを歴任。この間、カルピス、東芝、明治製菓、富士写真フイルム、花王などを担当。カンヌ国際広告映画祭銀賞、全日本CMフェスティバル大賞、ACC賞などを受賞。著書に『時代を映したキャッチフレーズ事典』(共著)。

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