電通を創った男たち #42

日本のCMの育ての親 尾張幸也(6)

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    伊藤 徳三

尾張幸也 遍歴時代を終える

 

さて、日テレ開局の1年前に話は戻る。尾張が電通に入社した年だ。この昭和27(1952)年、電通はすでにテレビ事業を見越した組織改革と事業開発を行っている。組織としては本社ラジオ局の中にテレビ部を新設し、これが翌年には東阪でラジオテレビ局として発進する。事業開発としてはテレビという新しい媒体についての社内研究会を発足させ、あらゆる角度から新媒体の実像・価値・事業可能性を探った。部長の木原通雄が中心となって研究の方向を指示したが、研究会メンバーの即戦力は大前正臣ただ一人だった。大前は電通在籍のままガリオア資金(米軍占領地への米陸軍省資金)を得て渡米、ミシガン大学、コロンビア大学に学んで帰国したばかりだった。アメリカでテレビ・コマーシャルを実見してきた唯一の証人、29歳の大前正臣を真ん中に据えて、研究会メンバーはカンカンガクガクの議論を繰り広げる。入社早々の尾張もテレビ研究会に加わった。

 
 
『おもしろいラジオとテレビの話』目次

尾張の記憶によると「要するに、テレビの啓蒙書を作れということなんです。テレビが始まるから、スポンサーの説得材料として、テレビとはこういうものだ、コマーシャルとはこういうものだと、そういう説明書が必要だったんです。ですから、ステーション・ブレーク、ステブレとは何だとかね、スポットとはいったいどういうことかとか…ということから出発して、いろいろな啓蒙的なことをやったわけです」(志賀信夫著『テレビを創った人びと』)。研究会の成果は最終的に大前がまとめ、この年8月に『電通TVシリーズ』として5冊構成のパンフレットとなる。尾張は後々までこのパンフレットを大切に保存していた。大前正臣はその後独立、国際政治評論家として幅広いテーマで多くの著作をものするが、在職中の処女出版『おもしろいラジオとテレビの話』(1953年・東西文明社)は、「天然色テレビ」(カラーテレビ)「立体テレビ」(3Dテレビ)「テレビ劇場」(パブリック・ビューイング)の項まで設けた、きわめて未来志向の内容だった。テレビ研究会の自由闊達にして白熱した空気が、紙面から透けて見えるようだ。大前が去った後、テレビ媒体やテレビ・コマーシャルについて世に発信する役回りは、尾張が担うことになる。

衝撃的な報せが電通全社を襲った。木原通雄のガス事故死である。昭和30年2月3日未明のことだった。ラジオテレビ局次長の木原は広告代理店の立場を超え、日本の新しい産業=ラジオテレビ産業の実質的な推進力となっていた。前の年、3カ月に及ぶ長期出張でアメリカのテレビ事情、広告事情を詳細に把握して帰国していた。さあこれから、という大事な時期の死である。尾張はどのような気持ちで悲報に接したのだろうか。尾張とコマーシャルを出会わせ、次から次へと刺激を与え続けたのが木原なのだ。上司と部下と言うよりは、海図なしで航路を切り開いていく船乗り同士の気持ちではなかったか。わずか3年足らずのつきあいだが、木原の見識、意欲を尾張も共有していたに違いない。テレビ・コマーシャルに取り組む尾張の姿勢はこの後、さらに幅広く深くそして意志的になって行く。心の中に木原を生かし続けているように。

 
1956年頃の茶の間。
仏壇の隣の座をテレビが占めている
 

木原の死のふた月後、昭和30年4月、ラジオ東京(現TBS)が開局、テレビ放送を開始する。ラジオテレビ局の企画部にいた尾張は、開局前の三月に営業副部長に転じて、ラジオ東京担当の責任者となる。生まれてはじめての営業経験である。「こっちは、そろばんもなにも知らなかった。無茶なことをしたと思うけど、しょうがないから、赤坂のまだ射撃場の跡みたいなラジオ東京へ通ったわけです。ところがそこに、僕の海軍14期予備学生の同期生の亀田幸成が営業部のデスクにいた。亀田が助けてくれたお陰で、なんとか開局の仕事は切り抜けたが、営業という仕事はどうも合わない。それで “やっぱりオマエは制作の方がいいよ”というので、半年ほどで制作にもどることになりました」(志賀信夫著『テレビを創った人びと』)。

コマーシャルの神は、一度つかんだ尾張の手を放さなかったわけだ。いや、尾張の方で放さなかったか。今度はテレビ企画制作部だ。番組企画はやらない。テレビCMしかやらない。それに前のように企画だけではない。企画から制作まで一貫して責任を持つ、いわば「テレビCMの専門家」である。尾張はこの昭和31年を「私にとって大切な年」と位置づけている。吉田秀雄によって電波を知った年でもなく、木原通夫からコマーシャルを教わった年でもない。初めて自分の手で本格的にテレビCMを作ったこの年を、だ。「遍歴時代が終わったというところですかね。今後の行く道がはっきりした」(『電通一〇〇年史』別冊『電通人たち』)。文学も兵役も出版編集も番組企画も、遍歴時代と言いきった。テレビCM一筋に生きて行こう、と心が決まった。尾張幸也すでに35歳であった。この年の経済白書は「もはや戦後ではない」と謳っていたし、新媒体=テレビへの期待も高まってはいたが、それでもこの年のテレビ広告費はわずかに20億円。新聞広告費の20分の1にも満たない。テレビ広告費がこの200倍となり、新聞広告費を抜き去る日まで約20年間、尾張は手掛かりを探りながら岩山を登り続けることとなる。

(文中敬称略)

◎次回は5月17日に掲載します。

プロフィール

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    伊藤 徳三

    1945年東京生まれ。69年一橋大学社会学部卒。同年電通入社。クリエーティブ部門でCMプランナー、クリエーティブ・ディレクター、シニア・クリエーティブ・ディレクターを歴任。この間、カルピス、東芝、明治製菓、富士写真フイルム、花王などを担当。カンヌ国際広告映画祭銀賞、全日本CMフェスティバル大賞、ACC賞などを受賞。著書に『時代を映したキャッチフレーズ事典』(共著)。

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