電通を創った男たち #43

日本のCMの育ての親 尾張幸也(7)

  •      r
    伊藤 徳三

吉田秀雄の厳しい叱咤

 

尾張幸也は35歳にして、初めて自分で本格的にテレビCMを作り始めた。担当広告主は服部時計店(現セイコーホールディングス)で、作るのは民放テレビ全局に流す時報のコマーシャル・フィルムだ。ところがここで困ったことが起こる。たしかに今までずいぶんとラジオの番組やコマーシャルの企画を立ててきたし、『ラジオ・コマーシャルの研究』『電通TVシリーズ』ではコマーシャルの勉強もしっかりやった。でも実際にフィルムをいじって作った経験はゼロなのだ。理論と現場とではまるで違う。ここで尾張を支えたのが制作会社のスタッフたちだった。フィルムの性質、ムービーカメラ、ライティング、アニメーション、音楽…知らないこと、知りたいことが山ほどある。現場の制作スタッフ抜きにはテレビCMなど作れない。そう思い知った尾張は映像技術をスタッフから学び、コマーシャルというものをスタッフに教え(制作会社のスタッフはPR映画出身者が多かった)、あるいは共に考えながら走り始めた。

 
服部時計店の時報CM
 

服部時計店の時報コマーシャルと言えばまっ先に思い出されるのが、放送事故で幻となってしまった「日本初のテレビ・コマーシャル」だ。そのフィルム原版とプリントは既に失われてしまっている。その後流された時報コマーシャルは残っていて、これが現存する日本最古のテレビCMだ。テレビ創生期のコマーシャルの多くがそうだったように、この時報コマーシャルもアニメーションの手法で作られた。アニメーションのニワトリ・キャラクターが時計のネジを巻く映像だ。「こちらは日本テレビでございます。時計のゼンマイは、一定の時刻に、静かにいっぱいお回しください。精工舎の時計が7時をお知らせいたします」と女声ナレーションが入る。このアニメ・シリーズを受け継いだのが、テレビ営業から企画制作畑に戻ってきた尾張だった。

ニワトリの他にアヒルとヒヨコを加え、30秒のドラマに仕立てた。そして月に3~4本というハイペースで、時報コマーシャルを作り続ける。当時30秒のアニメ・フィルムを作るのに2週間くらい要したから、常に複数本かかえての奔走だった。若手の水島寛(後の電通第3クリエーティブ局長)が器用に絵コンテを描くので、「おい、水さんこのコント、描いてくれ」「ハイよ」という勢いで年間40~50本もつくった。慣れてくると欲が出る。当代一流の劇作家・放送作家の飯沢匡(シバプロ)や漫画家・アニメーターの横山隆一(おとぎプロ)を引っ張り込んだ。いい場を与えられた才能は、存分に仕事をする。そのことを、編集者尾張はよく知っていたのだ。そして場を与えるという資質は、プロデューサーの資質でもある。尾張はここに来て、一企画マンからプロデューサーへと、一皮むけた。そして服部時計店の午後7時の時報コマーシャルは、量だけでなく質の面も飛躍的に向上し、夕食後の家族団欒に自然と定着していった。

昭和33(1958)年までは100万台しか普及していなかったテレビ受像機だが、年が明けたとたんにうなぎ上りに売れ始め、3月末には倍の200万台を突破した。日本国民がどうしても見たいテレビ番組が4月にあったからだ。皇太子ご成婚の実況中継だ。

 
 
テレビ中継されたご成婚

4月10日、世紀の祝典の1日は国民にとって夢のような非日常だったが、その翌日から人々のテレビ視聴態度は日常そのものとなった。インフラも着々と整備されてきた。東京タワーがテレビ電波を発信し始め、この年だけでも北海道から沖縄まで21の民放テレビ局が次々と開局した。NHKや日本テレビの初放送からわずか6年、テレビは国民の生活にしっかり根をおろしたのだ。手さぐりで『電通TVシリーズ』をまとめて10年も経たないうちに、テレビ広告費はとうとうラジオ広告費を抜き去ったのだ。

社会的な影響力を増すと同時に、テレビに対する風あたりも強くなってくる。テレビ番組の低俗化を批判した「一億総白痴化」論(評論家・大宅壮一)がその代表と言えるが、その背景には出版界の教養主義も影響していた。コマーシャルについても「CM盲腸」説(あってもなくてもいいもの)が囁かれるなど、出る杭は打たれるような状態が何年も続く。一方広告代理業の近代化を推し進める吉田秀雄は、「広告は科学と芸術の総合」と高い理想を掲げた。世間の低俗批判との狭間にあって、根が真面目な尾張はこう受けとめている。「ここにあえて芸術という言葉を使われたのは、高いレベルの広告づくりへの厳しい叱咤です(中略)。一日も早く、レベル・アップを図り、吉田負託にこたえてゆかねばならぬ、と仕事しつつ、かつよく学びましたよ」(『電通一〇〇年史』別冊『電通人たち』)。

「よく学んだ」の言葉に偽りはない。美和夫人はよく覚えている。「丸善から洋書を買ってきては、毎晩のように勉強をしていました。コマーシャル関係の本が多かったと思います。親戚から『学者になれば良かったのに』と言われると『学者は好きな研究ばかりやっていて性に合わない』と言っておりました」。学びのための学びではない。尾張の問題意識は、きわめて具体的かつ切実だった。テレビCMの質を上げるにはどうしたら良いか、その一点。「グラフィックの歴史は古く、昭和二十七年に東京アド・アートディレクターズクラブ(ADC)が結成され、三十三年には東京コピーライターズ・クラブ(TCC)が結成されています。これで分かるように、既にプロフェッショナルとして独自の団体を結成するまでに成長していた。これに比し、残念ながらわれらいまだし」(『電通一〇〇年史』別冊『電通人たち』)。テレビにはプロフェッショナルがいない。歴史がなくて有経験者もいない。急いで集められた人材の出自は映画、舞台、ラジオ、録音スタジオ、美術、音楽、出版、電気技師など種々雑多だ。個人個人がいかに優秀でも、もともとモチベーションが違うし成果への考え方も違う。彼らがテレビCMのプロフェッショナルになるためには、やはり「質の向上」という共通の目標を持ち、表現知識も共有しなくてはなるまい。そう考えた尾張は、学ぶと同時にさかんに発信をし始めた。

次回は、これでもかこれでもかと書き連ねた、尾張の発信の一部を紹介したい。発信されたテーマはきわめて多岐に及んでおり、読者は内容の幅広さと深さに圧倒されることと思う。

(文中敬称略)

◎次回は5月18日に掲載します。

プロフィール

  •      r
    伊藤 徳三

    1945年東京生まれ。69年一橋大学社会学部卒。同年電通入社。クリエーティブ部門でCMプランナー、クリエーティブ・ディレクター、シニア・クリエーティブ・ディレクターを歴任。この間、カルピス、東芝、明治製菓、富士写真フイルム、花王などを担当。カンヌ国際広告映画祭銀賞、全日本CMフェスティバル大賞、ACC賞などを受賞。著書に『時代を映したキャッチフレーズ事典』(共著)。

バックナンバー

関連記事

続きを見る
ページ先頭へ