電通を創った男たち #45

日本のCMの育ての親 尾張幸也(9)

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    伊藤 徳三

名プロデューサー尾張の一面

 

前回は学究肌の尾張の一面をご紹介した。ひとりコツコツと、耕しては種をまきつづける尾張の姿は、「生まじめ」のひと言に尽きる。「吉田秀雄負託にこたえていかねばならぬ」と、「残念ながらわれらいまだし」とのせめぎ合いを、まっすぐ一身に背負っている。しかしながら一方で、この時期の尾張は自由闊達な別の顔も見せている。人の才を見抜いて場を与え、あるいは人と人とを出会わせる、そうしたプロデューサーの顔である。

  船橋ヘルスセンターのテレビCM
 
船橋ヘルスセンターのテレビCM(1962年)

尾張とともに船橋ヘルスセンターを担当した山川浩二は振り返る。「尾張さんは映像を考えると同時に、営業兼CD的な立場もこなしていました。つまり尾張さんの仕事ぶりは、プロデューサー的だったと思います。クリエーターを何人も率いている感じだったですから」。一世を風靡した船橋ヘルスセンターのCMソング「チョチョンのパ」は、山川浩二の依頼で三木鶏郎が作詞作曲したものだ。山川は学生時代から三木鶏郎の事務所に出入りして、NHKの「日曜娯楽版」など、ラジオ番組のアイデアを提供していた。電通入社後はスター作詞作曲家・三木鶏郎の、いわば電通内エージェントとして、全国スポンサーからのCMソング依頼をさばいていた。「『作曲料高いですよ』と言っても担当の営業さんは、『スポンサーのご指名だからいくら高くても構わない』と言うんで、次から次へと日本中から作曲依頼がありましたね」。尾張はこんな山川にCMソングをすっかり任せ、映像には自ら研究したリミティッド・アニメーションを用いる。そして服部時計店の時報CMで気心の知れた横山隆一(おとぎプロ)に、スティーブン・ボサストウ流のテレビ向きアニメーションを作ってもらう。

もうひとつ、忘れてはならないことだが、尾張は山川に意外な道をも示している。「僕が文章を書き始めるきっかけは、尾張さんだったんですよ。尾張さんのところに週刊誌からコラムの執筆依頼があって、それを僕に紹介してくれたわけです。たしかコマーシャルソングについて書いたように記憶しています。尾張さんは文章の書き方にはうるさかった。文字育ちの尾張さんともともと電波育ちの山川、という間柄でしたね」。こうして山川浩二の評論家としての才が目覚める。『広告発想論』や『圧縮情報のテクニック』で若手の広告マンに道を示す一方、『CMグラフィティ』や『昭和広告60年史』などでは、圧倒的な資料を編んで縦横無尽に時代を語る。山川浩二以外の誰にもできない語り部としての才を、尾張はすでに感じとっていたのだろう。

小田桐昭もまた、尾張幸也から場を与えられた一人だった。「尾張さんに出会わなければ、僕は本当にテレビをやってませんでしたね」。昭和36(1961)年に金沢美術工芸大学を卒業した小田桐は、真正面からグラフィック広告に取り組むつもりで電通に入ってきた。ところが配属先はグラフィック専門の宣伝技術局ではなく、なぜかラジオテレビ企画制作局テレビデザイン課。テレビ用のテロップやフリップカードをつくる部署だ。花形デザイナーを夢見る若者には酷な職場だった。「僕の欲しいものが、ここにあるはずもない」。宣伝技術局への異動を目指して具体的に動き出す。「ラ・テ企制脱出のコンペは、まず『八火賞』から大倉さんと手をつけた。(中略)幸いポスターや新聞が数点佳作に入賞し、僕は『イラストレーション賞』まで貰った。夏には、あの難関の日宣美展をようやく突破することができた。いよいよ、この孤島から脱出する日が近づいていることを確信して、僕の胸は高鳴った。その年も終わろうとしている冬のある日、僕のデスクに新井静一郎さんから直接電話をいただいた」(Acction vol.97「私のCM史 そして出会った方々」)。前回の「電通を創った男たち」シリーズに登場した、あの新井静一郎だ。「あなたの作品が準朝日広告賞になりました。おめでとうございます」。あこがれの宣伝技術局長からの電話だ。やっと念願の宣伝技術局への異動が決まった。

ACCグランプリのセイコーCM  
1964年のACCグランプリを受賞した服部時計店のCM
 

尾張は言った。「移るまで僕の部でちょっと服部時計店の仕事を手伝うように」。尾張部は世界に類のないCMプランナー専門の部だ。異動前一時的に尾張部に席を置いているだけだ。小田桐はそんなつもりだった。しかし「春も過ぎようというのに僕の異動について何の音沙汰もなかった。尾張さんご夫妻には、その春に僕たちの結婚の仲人をお願いしたばかりだし、強くたずねるのも何やらはばかられた。(中略)尾張さんは、そんな話さえあったのかという素振りで、次から次へと、大事な仕事を僕に与えてくれた」(Acction vol.98同掲記事)。そして小田桐は尾張から託された服部時計店(現セイコーホールディングス)のCMで、ACCのグランプリを獲得することになる。

「もう少しテレビの世界を見てもいいか」という気持ちとは裏腹に、小田桐はやはりグラフィック広告への思いを断ち切れなかった。「電通を辞めて他社に移ろうと思う」と尾張のところに報告に行くと、尾張は顔色を変えて激怒した。「ビックリしましたね。烈火のごとくですよ。本当に火山が爆発するような感じで、えーなんでこんなに怒るんだよって。よそに行かなかったのは、つきものが落ちちゃったからなんですよ。怖くてとかじゃなくて、あんまり激しいのであっけにとられて何かつきものがスポンと落ちた感じがしたんです。尾張さんが怒ったのは、広告をやらないんだったら、そのために会社をやめるというのはかまわない。ちゃんと広告をやっていくということなら電通がベストなんだから」。こうして電通に、いやCM業界に残った小田桐昭は、この後ずっとテレビ・コマーシャルを作り続け、日本のCMのレベルを一気に世界の高みにまで押し上げることになる。

小田桐には人にはない武器があった。時間をデザインする力だ。どんなにアイデアが優れていても、表現が拙劣だと人は振り向かない。CMの時間の流れに緩急をつけ、メッセージを肉体化させる。まさに空間をデザインし、意味伝達の流れをつくるアートディレクターの技だ。ところで小田桐は知らないことだが、実は彼の入社1年前、昭和35年の夏期電通広告大学で、尾張幸也企画第四部長はこんなことを言っている。「最後に、テレビにおけるアートディレクターの必要性にふれておきたい。先ほど、編集によって時間を短縮することが大切であるとのべた。しかし、それ以前に、企画に際し、時間と空間のデザインをしっかりやっておくことが肝心である。むしろテレビCMフィルムでは、この両者のデザインが中心問題であって、これが十分でないと編集だけではどうにもならぬ。この意味から、テレビCMフィルム製作の中心は、グラフィック・デザインの用語と同じになるが、アートディレクターであるといってよい。もちろん、仕事の領域はさらに広いが。現在、CMという観点からするとインパクトの弱いフィルムがかなり見うけられるが、その主な原因は最初のデザインが検討不十分であるところからくるものが多いように思われる。今後の問題として、テレビCMフィルム向上のため、早急にテレビ・アートディレクターの養成をいそぎ、彼を企画、演出の中心として、テレビCMフィルム製作体制を確立する方向に進むことが必要ではないかと考えている」(『広告研究』1960年版・色字筆者)。

実のところ尾張は小田桐昭に出会う前から、彼の才能を待ち構えていたかのように思える。名プロデューサーは常に油断なく目を光らせているのだ。

(文中敬称略)

◎次回は5月25日に掲載します。

プロフィール

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    伊藤 徳三

    1945年東京生まれ。69年一橋大学社会学部卒。同年電通入社。クリエーティブ部門でCMプランナー、クリエーティブ・ディレクター、シニア・クリエーティブ・ディレクターを歴任。この間、カルピス、東芝、明治製菓、富士写真フイルム、花王などを担当。カンヌ国際広告映画祭銀賞、全日本CMフェスティバル大賞、ACC賞などを受賞。著書に『時代を映したキャッチフレーズ事典』(共著)。

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