電通を創った男たち #46

日本のCMの育ての親 尾張幸也(10)

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    伊藤 徳三

「CM業界」はこうして誕生した

 

さてテレビ草創期には、コマーシャルの7割はスタジオ生CMで、生放送番組の付属物のようについでに作られていた、という話はすでにした。アナウンサーもCM台本を読むのに慣れていないから、紋切り型であったり逆に大げさに過ぎたりして、視聴者の共感を得にくかった。それどころか番組制作の都合でCM時間が短縮されたり、CM自体飛ばされそうになったことすらあった。スタートから5、6年経って、フィルムCMの比率が多少増えたとは言え、生CMの割合は依然として4、5割を占め、扱いも改善されないままだった。当然ながら広告主は、制作現場のテレビ局に抗議する。CM部門の強化、CM担当者の社内的位置の向上、CMディレクターの強化などを要望し、テレビ各局もCM課を置いて対応しようとした。しかし当時の生CMは局のサービスとして無料で制作されていたため、改善しようにも限界があった。

「局側のみの研究会では、CM全体の進歩向上、問題解決の目的を達成するのに手ぬるいのではないか。テレビ11局のCM責任者会議も、民放連CM専門部会とともに、広告主、広告代理店への働きかけの必要を考えはじめていた。民放連の山口進調査部長が、広告主協会の西郷徳男事務局長と日本広告業協会の高島小三郎事務局長によびかけ、CMの研究機関設立を提案した結果、12月2日にこの3団体の関係者が会合を開き、合同でCM研究・改革するための組織を検討、翌昭和35(1960)年1月に『CM合同研究会』(略称ACC)をスタートさせることに決めたのである」(ACC設立30周年記念誌『ACC30年の歩み』)。つまり現在のACC(全日本シーエム放送連盟)は、元来はスタジオ生CMをなんとかしよう、という趣旨で立ち上げられたものだったのだ。

そしてここに尾張幸也が絡んでくる。「ところが、出席メンバーは各社とも偉い人たちばかり。そのうち具体的な話が多くなり、そこで『おまえやれ』と僕におハチが回ってきた。各社とも現場の人間が出席するようになりました。話しているとCMの地位を高めよう、一般の人にもいいCMを見る機会をつくるべきだといった意見が出てきましてね。優秀なCMを選んで表彰する第1回のフェスティバルを、昭和36年の秋に開催したんです」(『電通一〇〇年史』別冊『電通人たち』)。CMのレベルアップを目指す尾張にとって、ここでの出会いは心強いものだった。生CM問題に発したACCはこうして、誕生間もなく質的な転換を遂げる。CM制作者が一堂に会することによって、自らの社会的立場を自覚し、お互いの才能を意識し合い、「質の向上」という大きな目的を共有することとなった。「CM業界」の誕生である。新しい産業とは、こうして勢いを増して成長していくものなのだろう。

ACCフェスティバル委員のころ  
ACCフェスティバルの委員のころ
 

「質の向上」はまさしく、尾張が吉田負託に応えんとして心に決めていた目標だ。それがここにきて社会的にも認知された。尾張の動きはさらに加速する。実はこの段階でのACCには、欠けているジグソーピースがあった。CM制作プロダクションである。生CMにとどまらずCM全体の質の向上を目指すならば、フィルムCMのプロダクションがACC構成員としては欠かせない。初めて服部時計店の時報コマーシャル・フィルムをつくった際、尾張は「現場の制作スタッフ抜きにはテレビCMなど作れない」と痛感している。その思いをACCフェスティバル委員会で報告した結果、プロダクション側との交渉役が尾張に託された。日本テレビの椎橋勇CM室長との二人三脚である。

この交渉には、越えなくてはならないハードルがあった。尾張自身にその間の事情を語ってもらおう。「ACCというのは、団体加盟なんです。広告主協会、民放連、広告業協会、放送広告代理店中央連盟の四団体からなっている。だから、プロダクション側でも団体をつくり、至急ACCに加盟してもらいたいということを、ACCの委員として椎橋勇さんと僕が、井出さんや横山隆一さん(当時おとぎプロ)その他、何人かの方にお話しした記憶があります」(JAC設立30周年記念誌『手さぐりの30年』)。「井出さん」とは井出武彦(T・C・J)、「何人かの方」とは森邦資(シバ・プロ)、伊庭長之助(日本天然色映画)、森川四郎(佐々木プロ)である。日本天然色映画と佐々木プロはムービー・アドからスタートしてテレビCMに進出したプロダクションだが、おとぎプロの横山、T・C・Jの井出、シバ・プロの森は、尾張が担当している服部時計店のCM制作を通じて旧知であり、話は早かった。昭和37年に41社の加盟で設立されたJAC(日本テレビコマーシャルフィルム製作者連盟/現 日本アド・コンテンツ制作者連盟)はさっそくACCに参加して、日本のテレビ・コマーシャル発展に大きな力を発揮する。

第1回のCMフェスティバル委員として粉骨した尾張はその後、『CM年鑑』委員、監事などを担当してACCの骨格づくりに励み、昭和46年から昭和52年までは7年間連続してCMフェスティバル運営委員長をつとめた。その7年間に選ばれたグランプリ・テレビCMは、次のような顔ぶれだ。

   
 

味の素 / ハイミー「いもがらぼくと」
松下電器産業 / ナショナル電子頭脳毛布「ひよこの誕生」
サントリー / サントリーホワイト「Get with it」
サントリー / サントリーウイスキー角「雁風呂」
松下電器産業 / トランジスタラジオクーガ115「母の国の声」
資生堂 / クリームリンス「弓」
松下電器産業 / 白黒テレビトランザム「高見山」

 
  第1回CMフェスティバルの祝祭風景
 
第1回CMフェスティバルの祝祭風景

まさに世界に誇れる質の充実だ。こういうCMにかかわりたい、と広告業界を目指す若者も増えた。テレビCMの効果は紛れもないものとなり、昭和50年、年間のテレビ広告費は新聞広告費を抜いて、ついにトップの座を占めるにいたった。なんとかCMのプロフェッショナルを育ててグラフィック広告の高みにまで達したい、との尾張の真剣な思いが牽引力となって、日本のCM全体のレベルアップにつながったことは疑いを入れない。

(文中敬称略)

◎次回は5月31日に掲載します。

プロフィール

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    伊藤 徳三

    1945年東京生まれ。69年一橋大学社会学部卒。同年電通入社。クリエーティブ部門でCMプランナー、クリエーティブ・ディレクター、シニア・クリエーティブ・ディレクターを歴任。この間、カルピス、東芝、明治製菓、富士写真フイルム、花王などを担当。カンヌ国際広告映画祭銀賞、全日本CMフェスティバル大賞、ACC賞などを受賞。著書に『時代を映したキャッチフレーズ事典』(共著)。

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