電通を創った男たち #49

電通軍師にしてニューメディアの旗手

塚本芳和(1)

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    北野 邦彦

吉田秀雄、社長自身がすぐれた軍師

 

平成26(2014)年1月、NHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」が始まった。信長、秀吉に軍師として仕え、智将としての力を存分に発揮した黒田官兵衛こと黒田孝高の生涯が、前川洋一の脚本で描かれ、官兵衛は岡田准一が演じている。戦国時代以降、戦いが大規模化し複雑化するにつれ、将軍の戦略的補佐役としての軍師、すなわち参謀の役割が重みを増し、黒田官兵衛とともに信長、秀吉に仕えた竹中半兵衛(重治)、武田信玄の軍師であった山本勘助、伊達正宗の片倉景綱を始め、数々の軍師が輩出された。

中国でも歴史上数多くの軍師が現れ、項羽の范増、劉備の諸葛亮など、多くの名将の名が歴史を彩っている。

広告業界は、極めて競争の激しい業界である。この業界は製造業のように工場から出荷される製品を持たない。流通業のように店頭に並べられる商品を持たない。得意先に提供するものは、智力を振り絞って組み立てられた「広告」というサービスがそのすべてである。広告業は知的サービス業の極致に位置付けられる業種ともいえる。

優秀な広告人は戦いの術を熟知している。厳しい広告キャンペーンを戦い抜くことにも長けている。広告戦術の展開能力に優れた広告人、力のある広告会社が勝利を収め、広告市場を制覇することとなる。

しかし、広告戦術の展開、つまり現場での白兵戦に強い広告人や広告会社は数多く存在するが、将来の戦場はどこになるのかを的確に読み通し、その戦場でどのような兵員や武器で戦えば勝利を収めることが出来るのか、将来はどの様な兵法や武器をわが物としなければならないか等といった、広告戦術よりも一回り大きな広告戦略を立案し、実行することに長けた広告人や広告会社はそれほど多くは見当たらない。電通4代目の社長・吉田秀雄は間違いなく広告戦略を立て得た軍師であり、同時にその広告戦略を実行に移せる将軍でもあった。

昭和22年から38年まで、16年間の長きにわたって社長の座にあった吉田秀雄は、社長としての統率力に並はずれた才能を示した。敗戦により廃墟と化した東京で、平和産業としての広告業の重要性を力説し、昭和20年にわずか352名であった社員を、吉田が亡くなった年である38年には何と10.6倍の3724名に、取扱高を昭和21年の1億1700万円から、昭和38年には、663倍の776億9500万円に大幅に伸長させた。

  常に最前線で指揮を執り続けた吉田秀雄。早朝に行われた最高幹部執行会議で
 
常に最前線で指揮を執り続けた吉田秀雄。
早朝に行われた最高幹部執行会議で

将軍の立場である社長は、本来ならば後方の安全が確保された場所にしつらえた大本営で指揮を執る。しかし吉田秀雄は戦に臨むに当たり、前線から遠く離れた安全な本営に籠ることをよしとせず、敵弾が激しく飛来する最前線に立って指揮をとること常としていた。激しい戦闘の繰り広げられる最前線に身をさらし、第一線で戦う社員を叱咤し、激励し、鼓舞して、士気を盛り上げ、社員もまた、吉田の陣頭指揮によく応え、赫々たる成果をあげてきた。

吉田は最前線に立つ将軍でありながら、自身が勝れた軍師でもあった。国民がまだ敗戦の残影に苦しめられ、廃墟から立ち直れずにいた昭和21年2月、当時常務取締役の吉田は、戦後の電通の進むべき方向を6項目の「活動方針」として発表する。この吉田による大きな構想を包含した「活動方針」は、当時の政治・経済状況下では、あまりに気宇壮大すぎる絵空事として、世間からとらえられかねなかった。

この時に吉田が設定した「活動方針」と題された経営目標は、①民間放送の実施促進 ②PRの導入と普及 ③市場調査実施能力強化のための調査部機能の拡充 ④広告表現技術の向上 ⑤屋外広告などの媒体の多角化 ⑥印刷能力の向上であった。

しかし、この6項目の経営目標は、その後の10年以内に、何と全てが具現化される。軍師・吉田の樹立した広告戦略の展開に、狂いのなかったことが証明されたのである。当時、電通ほどの大胆な広告戦略を策定し展開した広告会社は、日本のどこにも見当たらなかった。

昭和38年1月27日、吉田秀雄は59歳の早すぎる生涯を終えた。28日付の朝日新聞「天声人語」で、朝日新聞の荒垣秀雄は吉田の死を悼み、また、その業績を称え、次のように記している。

吉田社長の社葬が行われた青山葬儀場は死を悼む会葬者が引きも切らなかった  
吉田社長の社葬が行われた青山葬儀場は
死を悼む会葬者が引きも切らなかった
 

「…“広告の鬼”で自他ともに許した電通のワンマン社長、吉田秀雄氏がガンで亡くなった。現代は何事もPRの時代だが“広告屋”といわれた広告代理業を立派な企業として社会的地位を高めた点で、吉田氏は第一の立役者だったと言える。彼が電通に入社したころは、『押し売りと広告屋は立ち入るべからず』のハリ紙を入り口にはり出す会社も少なくなかった。広告という商売を軽ベツする風潮がなかなか抜けなかった。ことに、終戦直後の物資欠乏時代は産業界も“売る物”がなく、広告業もブランクだった。…

この商売には製造する物資も売る品物もない。設備は事務所だけ。唯一の“資本”は人間であり、頭脳とアイデアで“企業のイメージ”を売るだけだ。…」

荒涼たる廃墟の中で「活動方針」を練り上げ、それを実行した吉田秀雄の慧眼と実行力とには、今更ながら感嘆せざるを得ない。

(文中敬称略)

◎次回は6月22日に掲載します。

プロフィール

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    北野 邦彦

    1937年生まれ。早大第1商学部卒。63年電通入社。秘書室長、広報室長などを歴任。01年より帝京大文学部社会学科教授を務めた。著書に『日本の広報・PR100年』(共著/同文館)、『実践マーケティング・コミュニケーションズ』(共著/電通)など。

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