電通を創った男たち #52

電通軍師にしてニューメディアの旗手

塚本芳和(4)

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    北野 邦彦

「塚ごん」塚本芳和の電通での軌跡

 

昭和34(1959)年10月に嘱託として電通に採用され、本社企画調査局調査第1部に配属された後、平成11年6月に電通を退社するまでの塚本芳和の社歴は、大きく分けて4期に区分される。

これらの全ての期を通じ、塚本芳和は多くの先輩・同僚から、親しみを込めて「塚ごん」と呼ばれていた。しゃべる時の迫力と、そのいかつい容貌が、人間離れしているという評判からつけられたネーミングであった。電通ただ一人の農学博士を怪獣的なニックネームで呼ぶというのも、いかにも電通らしいユニークさであるが、「塚ごん」と呼び掛けられるとうれしそうに「おう」と返事を返すのが常であった。部下や後輩たちはさすがに「塚ごん」とは呼べず「塚さん」と呼んではいたものの、「塚ごん」のニックネームは電通社員のだれにも知れ渡り、なかなかの愛着を持たれていた。

『追悼文庫・塚ごん塚』  
『追悼文庫・塚ごん塚』
 

平成22年4月、塚本の通夜の席で、彼の業績の数々と人柄の素晴らしさを長く伝えたいという話が会葬者の中から沸々と湧き上がり、翌年1月、『追悼文庫・塚ごん塚』が刊行された。その表題は、「塚ごん」が道を切り開き、打ち立ててきた数々の道標を記した「塚」を確認し、その事実を何時までも後世に伝え、残して行こうという思いをから命名されたものである。

「塚ごん」塚本芳和の第1期は昭和34年10月の入社から38年9月までの5年にわたる調査部門勤務の時期である。この時期、塚本芳和は東大農学部水産学科やその後の大学院時代に培った統計調査法を市場調査に応用し、電通の調査部門の質的高度化に努め、また調査局に配属された新入社員教育の場で、市場調査理論を伝授した。

第2期は昭和39年10月から44年10月までの5年にわたる本社第3連絡局連絡部副部長(三共担当)としての営業部門勤務の時期である。

この時、電通の主要な得意先である製薬会社・三共からは、高度な科学的知識に裏付けられた誠実な営業作業により大きな信頼を獲得する。

第3期は電通の経営計画策定部門のスタッフとして勤務した時期である。電通の経営における軍師として大活躍した時期であったと言ってよい。昭和44年11月に新設された社長室システム開発事務局副部長として2年の勤務の後、46年7月に新設された総合開発室研究部長、47年10月、社長室と総合開発室を合併した新組織、総合計画室が設立されると総合計画室経営情報システム部長兼開発部長となった後、58年10月に新設された本社メディア開発局長に任命されるまでの14年間である。この間、塚本芳和参謀はまさに水を得た魚のように、生き生きと電通を脱皮させるための戦場の見取り図を描き続け、戦力の最適配置に心血を注いだのである。

第4期はメディア開発局長に就任した昭和58年10月から、62年6月の取締役・総合計画室長就任、平成元年6月、常務取締役に昇格し、平成5年6月、株式会社エレクトロニック・ライブラリー社長就任、11年6月の同社社長退任に至る16年間の長きにわたって、日本のニューメディアの開発に当った時期である。この間、わが国にニューメディアの芽を、たくましい大木に育て上げるために払った塚本芳和の努力には、余人をもって代えがたいものがある。

  平成2年、ハリウッド・チャイニーズ・シアター前
 
平成2年、
ハリウッド・チャイニーズ・シアター前

また、第4期の中頃の平成2年10月には、社員研修を全社的立場から推進するための組織として能力開発センターの設立に尽力するが、同センター発足に伴い、塚本は常務取締役兼センター長として、世界で通用する新しい電通人の育成を陣頭指揮で、強力に押し進めたのであった。

次回から、平成22年4月17日、79歳でこの世を去った「塚ごん」塚本芳和の軌跡を、各期をなぞって確認して行きたい。

(文中敬称略)

◎次回は7月5日に掲載します。

プロフィール

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    北野 邦彦

    1937年生まれ。早大第1商学部卒。63年電通入社。秘書室長、広報室長などを歴任。01年より帝京大文学部社会学科教授を務めた。著書に『日本の広報・PR100年』(共著/同文館)、『実践マーケティング・コミュニケーションズ』(共著/電通)など。

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