電通を創った男たち #53

電通軍師にしてニューメディアの旗手

塚本芳和(5)

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    北野 邦彦

鯉の病気を治し扱い拡大
――電通社歴第1・2期<調査から営業へ>

 

塚本芳和は東京大学大学院博士課程を修了し農学博士となった昭和34(1959)年3月から半年後の同年10月、吉田秀雄の面接をパスし、本社企画調査局嘱託として採用される。その後、調査局、第3連絡局を経て、昭和44年11月に、社長室システム開発事務局副部長となり、電通の経営計画立案のスタッフとして現場を離れることになる。この10年間の電通の現場での塚本芳和の社歴をたどってみよう。

父の塚本誠が軍人であったため、塚本芳和は父の転勤命令に従い、生地の伊丹から上海、台北、栃木と、居所を転々とする。軍人は軍の命令を受けると、数日以内に新任地に到着しなければならない。そのために、「何時なんどき転勤命令を受けても、即対応が可能な様に、家庭内には家財道具がほとんどなかった」と、後に塚本は語っている。

 
 
昭和35年、伸子夫人と結婚披露宴で

ありふれた家庭の雰囲気から遠い、軍人・塚本誠一家で昭和5年5月に生を受けた塚本芳和は、30年後の昭和35年5月、普段の家庭の落ち着きを求めて菅谷伸子と結婚する。

伸子は、塚本が東大大学院時代に私立文園高校(現大妻中野高校)で非常勤講師を務めた折の同僚である。博士論文には内外の参考文献をリストアップして添付しなければならない。当時はリストの作成には英文タイプライターを使用する必要があったが、残念ながら塚本は英文タイプをこなすことが出来なかった。そこで、青山学院大学英文科の出身であった伸子が、塚本に代わり英文タイプによる文献リストを作成し、そのお蔭もあって博士論文は見事パスする。さらには、それが縁となり、博士号を授与され電通に入社した翌年、伸子と華燭の典を挙げる。

塚本芳和の博士論文「魚類の発する音響に関する研究」の巻末には、伸子が作成した参考文献リストが、塚本芳和の論文にぴったりと寄り添って、今も東大の図書館に保管されている。

結婚の翌年の昭和36年1月、企画調査局は調査局と開発局として独立し、塚本は調査局調査第1部の副部長となる。局長は杉山栄一郎、部員総数は70名であり、調査第1部は広告主から依頼された市場調査の企画実施部門であった

調査部門に配属された社員は、調査技術に頼りすぎるあまり、ともすると唯我独尊となる恐れがあり、サービス精神を欠くことがあるとも言われた。塚本芳和には、そのような懸念は全く見られず、得意先へ向けてのサービス精神も旺盛であり、若い局員たちとの酒席にも喜んで参加していた。

近代的な統計調査は、第2次大戦後GHQの指導によって急速に普及する。昭和24年6月、世論の趨勢を正しく把握したいとするGHQの指導で、小山栄三を所長とする国立世論調査所が設立される。同年7月~10月には、民間情報教育局(CIE)主催の「広報講習会」が、官公庁やマスコミの関係者を対象に、13回にわたり開催されるが、その第3回目に、後にコロンビア大学教授になるハーバード・パッシンが、CIE世論社会調査課の立場から「大衆理解の心得」のテーマで講義を行い、科学的調査の重要性を説いている。

GHQの期待に応えるべく、昭和29年、時事通信社と国立世論調査所を母体とした中央調査社が設立され、世論調査の実施にあたった。当時、わが国には市場調査を実施できる調査専門会社はほとんど見当たらず、電通調査部やTBS調査部が大学の市場調査研究会などを使って調査の実施に当たる例が、数多く見られた。特に、電通は調査第1部~第3部のスタッフが市場調査や媒体調査に従事し、広告主や媒体から、その実施能力に関して高い評価を受けていた。塚本芳和も、副部長のポジションで多くの調査設計に携わると共に、毎年調査局に配属される7~8名の新入社員に統計調査法の手ほどきする。このようにして塚本は、昭和22年に、吉田秀雄が経営の柱の一つに建てた調査部門の充実に向けて、そのもてる能力の発揮に努めた。

昭和39年4月、東京本社と大阪支社の調査局と開発局が再編され、調査局の主要部門は新たにマーケティング局となり、塚本芳和はマーケティング部副部長となる。

河口静雄  
広告界の重鎮として信望を集めた・河口静雄
 

この年の10月、塚本は、営業部門である第3連絡局土居部副部長として転身し、製薬会社・三共の担当となる。三共は電通と長年にわたる良好な取引関係にあり、科学的な広告活動の展開を心がける近代的優良企業であった。また、会長の河口静雄は広告関連団体のトップに位置する全日本広告連盟会長や電通広告賞審査委員長でもあり、電通にとっても極めて重要な人物でもあった。

歯に衣着せぬベランメエ口調ながら、科学的合理性に裏付けされた誠実なサービスを心がける塚本の態度に河口は魅せられ、信頼を寄せ、電通に対する三共の調査部門の扱いは一気に拡大した。ある日、河口家の庭の池で飼われていた鯉が病気にかかったところ、塚本が一発で快癒させたというので、塚本に対する河口の評価がさらに増大した。実は水産学科出身の塚本にしてみれば、魚の病状など一発で見分け、処置することは、たやすいことであったに違いない。

(文中敬称略)

◎次回は7月6日に掲載します。

プロフィール

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    北野 邦彦

    1937年生まれ。早大第1商学部卒。63年電通入社。秘書室長、広報室長などを歴任。01年より帝京大文学部社会学科教授を務めた。著書に『日本の広報・PR100年』(共著/同文館)、『実践マーケティング・コミュニケーションズ』(共著/電通)など。

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