電通を創った男たち #55

電通軍師にしてニューメディアの旗手

塚本芳和(7)

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    北野 邦彦

ダンプカーのごときバイタリティと個性的なキャラクター
――電通社歴第4期<メディア開発局長から常務取締役へ>

 

塚本の欧米メディア視察などを踏まえて、昭和58(1983)年10月、本社にニューメディア対応部門としてのメディア開発局が新設され、塚本芳和は局長に就任する。

 
 
塚本が表紙を飾った『月刊ニューメディア』

同年11月に創刊された『月刊ニューメディア』の84年8月号では、ニューメディアの旗手として、塚本芳和が同局次長の淵野平と並んで表紙を飾っている。

メディア開発局長・塚本芳和の下で幅広くニューメディア関連業務に従事し、塚本の人となりをつぶさに知る水島太蔵は塚本について次のように記している。

「新しいことに自らの意思で挑戦する人は悩み苦しむ。会社から命じられてやらされている人は迷い惑う。ニューメディア周りにはそんな人たちが満ち溢れていた。新聞社も民放もNHKも商社も銀行もメーカーも学者もみんな『塚ごん』を訪ね講釈を聞きたがった。跳ね上がりは諌められ戸惑いは励まされた。茨城なまりの江戸弁ともいわれる塚本語には不思議に人を元気付ける魅力があった。室外にもれるほどの大きな声は安心の鐘に聞こえた。銅鑼の音と名付ける人もいた」(『月刊ニューメディア』2010年6月号)。

以下は、電通が昭和60年、大学生のリクルート向けに作成したパンフレットに掲載された、メディア開発局長・塚本芳和の言である。

「僕のいる局は、ケーブルテレビ、キャプテンシステム、文字多重放送、衛星通信、INS、データ通信などのニュー・エレクトロニクス・メディアを対象とした部署ですから、特にこれからの世の中がどう変わっていくか、また一般の人たちは何を望んでいるかをキャッチしなければならない。いわば21世紀に花開く分野ですから長い目で広く物事を見られる若い人に大いに期待しているわけですよ。……とにかく、縁の下の力持ち的な人間が欲しいのであって、ええカッコしたい人間は続きませんね」。

尚、このコラムの塚本についての紹介文は、「ダンプカーのごときバイタリティと個性的なキャラクターで、電通の名物男とも称される塚本局長」とある。個性派ぞろいの電通社員の中でも、抜きんでて個性的な塚本の存在はひときわ目立ったものであった。

 
平成13年、CATV番組供給者協議会第16回通常総会で感謝状を贈られた塚本
 

メディア開発局長に就任した塚本は、獅子奮迅の勢いでニューメディアの開発にまい進する。昭和59年9月、CATV番組供給者協議会が発足し、塚本は代表幹事に就任する。この発足を記念し、第1回CATVフェスティバル「CATV’84」が池袋のサンシャイン60で開催され、電通は総合プロデュースを行う。

昭和60年3月から9月にかけて、「EXPO’85つくば科学万博」が開催されたが、この万博でもニューメディアの機器が随所で活用され、塚本以下のメディア開発局員は、総出でそれらの管理運営にあたった。

昭和61年12月には、塚本が力を入れて推進を図った株式会社エレクトロニック・ライブラリーが設立される。電通と大手新聞、出版、通信各社が出資して、新聞・雑誌記事をデータべースにしたコピーサービスを電子的に行うというものである。これは塚本が嘗てニューヨークタイムズ・インフォメーションバンクを訪れた際に得た知識を下敷きにして、技術的にさらに発展させたものである。

昭和62年6月、塚本芳和は遂に電通の取締役に就任し、総合計画室長となる。塚本芳和参謀の本格的登場である。

総合計画室は、電通の経営計画を立案作成する重要部門であり、いわば参謀本部であるが、総合計画室長の立場になっても、ニューメディアとの関係を断ち切ることはなかった。むしろ、ニューメディアの開発はさらなる発展を目指す電通にとっての重要経営課題であって、これまでの経緯も含め、塚本が管轄することは極めて適切な事と考えられたのである。メディア開発局は塚本の管轄下に置かれ、電通の将来の経営を支える柱のひとつとして位置付けられたのである。

昭和63年7月、塚本は、オーストラリア・ブリスベーン万博におけるハイビジョンの実施状況を視察するためのハイビジョン放送・衛星放送関係者を集めた視察団を結成する。団長は塚本であった。一行はブリスベーンでNHKの開発したハイビジョンの3元中継をモニタリングし、ハイビジョンの将来の発展を確信するが、ブリスベーンからの帰途、塚本の強い希望でペンギンの群生地を訪れる。海洋生物学は塚本の得意とする分野であり、ペンギンの生態に関し大いに薀蓄を傾けることになった。視察団の一行は、帰国後も塚本を中心に、「ペンギンの会」を結成し、毎年7月7日の七夕の夜、ブリスベーンの思い出話やニューメディアの行方を語り合い、大いに親交を深めたが、この会は何と20年後、塚本が亡くなる1年前まで活発に続けられた。

平成6年11月には、先端のインフォメーション技術を研究開発する部門を総本社機構として設立、インフォメーション・テクノロジー・センターと命名し、これも塚本が担務することとなる。

 
 
『電子メディアの近代史~井戸を掘った人々の創造と挑戦の日々』

平成7年6月、電通の常勤顧問となり、昭和61年に設立した株式会社エレクトロニック・ライブラリーの社長に就任する。平成8年10月には、『電子メディアの近代史~井戸を掘った人々の創造と挑戦の日々』(ニューメディア社)を、和久井孝太郎、堀之内勝一とで執筆する。628ページにわたり日本のニューメディアの発展を詳細に記録した大著である。また翌平成9年2月には、筑波書房から『マルチ・メディア曼荼羅―未来社会の羅針盤』を出版しているが、ニューメディアの歴史を描き続けてきた塚本の熱い思いの凝縮された著作となっている。

平成11年6月、塚本は電通、エレクトロニック・ライブラリーを退社し、40年ぶりに、完全に組織を離れた自由人になる。21世紀に入る直前のことであった。

(文中敬称略)

◎次回は7月13日に掲載します。

プロフィール

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    北野 邦彦

    1937年生まれ。早大第1商学部卒。63年電通入社。秘書室長、広報室長などを歴任。01年より帝京大文学部社会学科教授を務めた。著書に『日本の広報・PR100年』(共著/同文館)、『実践マーケティング・コミュニケーションズ』(共著/電通)など。

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