電通を創った男たち #56

電通軍師にしてニューメディアの旗手

塚本芳和(8)

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    北野 邦彦

「人材こそ全て」を実行した塚本芳和

 

最後に、塚本芳和の人材育成にかけた情熱について述べておきたい。冒頭に記した通り、広告会社の最大の財産は人材である。人材がすべてであると言っても過言ではない。そのためには採用した原石を磨きに磨き上げて珠玉に変え、それを広告主や媒体社に提供することで、広告主や媒体社の期待に添うよう、広告会社としてベストの人材、能力を提供しなくてはならない。

平成2(1990)年10月、人材育成のための、局レベルの総本社機構としての能力開発センターが発足し、センター長には常務取締役・塚本芳和が兼務することとなった。総合計画室長も兼務のままである。

 
平成3年の新入社員研修
 

人材こそが電通の最大の財産であり、電通はその財産を増やすためのあらゆる努力を払うべきだとの固い信念を持った塚本は、その基本計画を塚本の担務する総合計画室のスタッフに作成させ、そのアウトプットである人材育成部門の能力開発センター長を兼務することとした。

『社報電通人』(平成3年10月号)で、塚本は電通の研修の主旨について、次のように述べている。

 

「・電通はサービス業である。この原点を忘れている社員が多いのではないか。コミュニケーション業務で、優れたサービスを提供することはもちろん、エチケット、マナーの再点検、再教育も必要である。

・社の行う研修は、エデュケーションではなくトレーニングである。研修で得られた成果は即、仕事に生かしてもらいたい。

・国際人としての物の考え方を身に付けてもらいたい。世界企業を相手にするには世界に通じるコミュニケーションを理解することが必要である。

・電通人は誰でも、研修の講師となるくらいの意識を持ってもらいたい。人を教えることは自己トレーニングの早道である。

・健康管理も大事だ。お医者さんの講義をカリキュラムに取り入れた。優秀な人材、であっても、健康を損ね戦線を離脱すれば、社にとっても大きなマイナスになる」。

 

塚本が特に重視したことは、鎌倉に設けられた研修所で実施される職階研修はもとより、電通の業務の根幹を形成する営業、クリエーティブ、マーケティング、プロモーション各部門の部門別専門分野別職能研修と、現場におけるOJT(オン・ザ・ジョブ・トレーニング)、電通グループ全体の研修、それに新入社員研修であった。

鉄は熱いうちに打て。新入社員研修は特に重要視された。電通には毎年約200名の新規学卒者が入社していた。彼らを3カ月間、鎌倉の研修所と本社の研修ルームで徹底的に座学研修する。学生気分の抜けない社員に行われる指導の中でも圧巻は、新入社員研修第1日に行われる塚本講義であった。

電通社史から始まり、広告とは何か、各部門の機能、電通の特性などなど、休むことなく喋り続けること6時間。間に1時間の昼休みは取るものの、塚本はひたすら大声で講義を続ける。しかも、話しが面白すぎて、この6時間、眠る者も私語を交わす者も皆無であった。この名物講義は、昭和40年に始まり、平成7年にエレクトロニック・ライブラリー社長に就任するまで続けられた。

昭和46年に入社し、塚本芳和の講義を受けた塚本知行は、この時の印象を次のように記している。

「朝一から終業時まで『電通の組織と業務』という講義でした。――カバのような風貌をした人でした。――本筋の講義の合間に脱線する逸話の面白いこと、笑い転げてばかりでした」(『塚ごん塚』)。

大正14年、大日本雄弁会講談社から、雑誌『キング』が発刊され、たちまちにして大評判となるが、そのキャッチフレーズは、「面白くて、ためになる、安い」であった。このキャッチフレーズは、そのまま塚本芳和の講義にあてはめられる。

情熱を込めて真剣に、しかも楽しく人を育て上げようとする塚本芳和の大声が、今でもくっきりと浮び上がってくる。

平成22年4月17日、塚本は79歳の生涯を終えた。4月20日に通夜、21日に告別式が東京都世田谷区の用賀会館で行われた。冷たい雨が降りしきる通夜であった。20年にわたり塚本芳和の部下であった新山迪雄は弔辞の中で塚本芳和の生前の言行を、「時に舌鋒鋭く、叱咤、激励いや罵倒されることも数多く、茨城なまり(?)のその論調は、内容は格調高く、しかし、不思議に論理的ばかりには聞こえず、人間的な温かみがあり、聞く人を納得させるものであり、私としても、『ま、塚本さんの言うことならしょうがないか、言い出したらどうせ聞かないし』という感じでお付き合いが続いたところです」と評している。塚本の人となりを言い得て誠に妙である。

通夜の場で、塚本と20年以上にわたり親交を深めてきた『月刊ニューメディア』発行人の天野昭から塚本芳和追悼文集出版の提案があり、80名以上の関係者から追悼文が寄せられ、10カ月後に『塚ごん塚』の表題で追悼文集の刊行をみた。

 
 
ニューメディアに人材育成に情熱を注いだ塚本

塚本が社長室システム開発部に異動して以来半世紀にわたる長い付き合いのあるかつての部下、『塚ごん塚』編集委員の一人でもあった上野義矩は、次のように記している。

「追悼文集を編むことが決まって、計画どおりの数の原稿が寄せられるのか、多少の懸念がありました。しかし、それは取り越し苦労におわり、80名に垂んとする方々が思い出を書いてくださり、このような立派な文集が出来ました。これも塚本さんという強烈な個性がシュトルム・ウント・ドランクの時代の中で、鮮やかな光芒を四囲に放ち、人々の胸を射抜いたからでしょう」。『塚ごん塚』には、陸軍幼年学校の同窓、塚本誠・芳和親子2代にわたる知己、ニューメディア関係者、電通の上司、同僚、後輩、塚本伸子夫人、長女池田葉子、長男塚本英史などといった人々の思いで溢れている。

『塚ごん塚』編集委員であり『ニューメディア』発行人の天野昭は「(『塚ごん塚』の)編集作業は電通銀座ビルB1の『電通社友会談話室』で行われた。この部屋の壁には電通退職者の訃報がいつも張り出されている。その中のひとり、塚ごんは、今こうして多くの『追悼集』を寄せられて志合せ者だ」と、述懐している。

塚本芳和ほど、新しいコミュニケーション・メディアに熱い思いを寄せ、人を育てることに情熱を注ぎ、また、経営戦略の立案に奔走した軍師は、もう2度と電通に現れることはないのではなかろうか。

< 完 > 

(文中敬称略)

プロフィール

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    北野 邦彦

    1937年生まれ。早大第1商学部卒。63年電通入社。秘書室長、広報室長などを歴任。01年より帝京大文学部社会学科教授を務めた。著書に『日本の広報・PR100年』(共著/同文館)、『実践マーケティング・コミュニケーションズ』(共著/電通)など。

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