電通を創った男たち #57

コピーライターを

いちばんたくさん送りだした人

近藤 朔(1)

  • Uchida pr
    内田 東

濃紺のスーツに同色のネクタイ、白いシャツ

 

近藤朔は、2009年の “TCC(東京コピーライターズクラブ)ホール・オブ・フェイム”に、秋山晶(ライトパブリシティ)、天野祐吉(広告批評)らとともに選ばれ、コピー殿堂入りを果たした。秋山、天野両氏は現役だが、近藤は物故の人であった。

  父に代わってTCCホール・オブ・フェイムの表彰式に出た娘の伊藤緋紗子
 
父に代わってTCCホール・オブ・フェイムの表彰式に出た娘の伊藤緋紗子

「日本の生活が洋風化する時代に先駆けて、広告表現にモダニズムを導入したこと。また組織のリーダーとして多くのコピーライターを育てたこと」が殿堂入りの理由である。洋風化がすすむ時代、商品価値を日本的な文化構造から脱して、ワールドワイドの世界へ飛翔させた感性は近藤独自のものといえる。組織のリーダーとは、電通のコピー局長として、TCCの会長として、まだ文案家といわれていた黎明期のころからコピーライターの育成に努力を傾けてきたことは誰もが認めるところだ。

近藤と同じ時期に殿堂入りした秋山晶は、一時期近藤の指導を受けている。1961年頃、秋山は講談社の宣伝部に在籍していたが、午後になると銀座7丁目の外堀通りに面した電通ビル1階の宣伝技術局へ出向き見習いをしたという。局長の中井幸一の部屋では普段着で話ができたが、近藤の前ではかなり緊張した。初めて近藤に会ったとき、「タップダンサーのフレッド・アステアのような人だ。ステッキもコンビのレースシューズも似合うだろうな」という印象を受けた。濃紺のスーツに同系色のネクタイ、白いシャツ。端正な容姿と書かれたコピーが一致していたと秋山は述懐する。

1963年8月夏期広告電通大学で「コピーライターの役割」と題して講義する近藤  
1963年8月夏期広告電通大学で「コピーライターの役割」と題して講義する近藤
 

コピーは若さにまかせて書くものではない。短くしなさい。読む人のことを考えて書くようにといわれた。直接の指導はコピーを写真植字※にして貼り込む仕事だった。コピーが入るスペースをコンパスで測って、文字の種類や大きさを指定する。できあがってきた写植を一文字ずつ鋏で切って貼るのだが、それはただの切り貼りではなくて、トーンのデザインだった。ここは四分空き、ここは半角空きなど貼りながらコピーを覚えた。「湯気までおいしいキッコーマン」というフレーズを、湯気の形に貼るのに数時間かかった。

その容姿から連想されたものであろうが、“明朝体の長体が似合う近藤”といわれたが、行間は二分空きが近藤の決まりのスタイルだった。

近藤朔は1990年12月に亡くなった。西岸寺で行われた葬儀で、電通第1クリエーティブディレクション局長、TCC代表幹事の岡田耕は、弔辞でこう述べている。「ここに参列していただいた方の中には、近藤さんにお世話になったコピーライターもたくさんいます。近藤さんに育てられたコピーライター、近藤さんにご媒酌をお願いした数多くのコピーライターたちも集まっています。近藤さんは、コピーライターを世の中にいちばんたくさん送りだした人です」。

慶応義塾大学法学部に在席していた近藤朔は20歳になっていた。

土砂降りに近かった。明治神宮外苑競技場に75,000人の送る者、送られる者たちが集結し、行く先の暗雲を予測するかのようなずぶぬれの出陣学徒壮行会が開かれた。1943年、太平洋戦争の戦況の悪化にともなって、20歳以上の学生の兵役免除が解かれ、学業半ばで入隊することになる。

ゲート入り口での「歩調とれ!」の号令とともに会場に入る。「御国の若人たる諸君が、勇躍学窓より征途に就き、祖先の威風を昂揚し、仇なす敵を撃滅して…」という東条英機首相の訓示が、雨に煙る会場内に響く。出陣学生答辞のあと、出征兵を送る歌「海ゆかば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山ゆかば 草生(くさむ)す屍…」の大合唱が自然発生的に巻き起こり、壮行会の幕は閉じた。

  1944年、慶応義塾大学法学部在学中の近藤朔
 
1944年、慶応義塾大学法学部在学中の近藤朔

慶応の文系の塾生は、出陣学徒壮行会の1年前から、三田や日吉でパイロットの訓練を受けた。学徒出陣として、海軍飛行専修予備学生となる布石だ。なかには特攻隊待機組もおり、出撃しないまま終戦を迎えて、戦後三田に復学した塾生もいた。慶応の制服が手に入らず、階級章をはがした軍服を着て授業をうける者やボタンのない海軍の制服をそのまま着用している者もみられた。

明治神宮外苑での壮行会の1カ月後の11月17日、塾生出陣壮行音楽会が三田の大講堂で開催された。戦時下の金属の供出で、正門の鉄扉は木製にかわり、校内の柵の間の鉄棒もすべて取り払われていた。供出の残骸があちこちにみられる安っぽい校内がさびしかった。「本を閉じたよ ノートもおいた 明日のこの手で 銃剣執って…」の出陣塾生の歌が講内に響いた。続く23日にも、出陣塾生壮行会が催された。

 
※注釈:写真植字は文字を拡大、変形することができたし、字間や行間も指定できた。当時はまだ活字も使用されており、木や金属に字形を組み、インクをつけて印刷した。コンピューターが普及した今日では、文字打ち、割り付け作業をパソコン上で行い、プリンターで出力するDTP(desktop publishing=卓上出版)方式に変わっている。
 


(文中敬称略)

◎次回は10月5日に掲載します。

プロフィール

  • Uchida pr
    内田 東

    1938年東京都生まれ。早大文学部国文科卒。62年電通入社。本社宣伝技術局に配属され、キリンビール、三菱電機、アデランス、味の素などの広告キャンペーンに参加。朝日広告賞、毎日広告賞、カンヌ国際広告祭、全日本CMコンクール、日本雑誌広告賞などを受賞。電通中部支社マーケティング・クリエーティブ局長、目白大学社会学部メディア表現学科教授などを歴任。東京コピーライターズクラブ、日本広告学会会員。

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