電通を創った男たち #58

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近藤 朔(2)

  • Uchida pr
    内田 東

鳥取県根雨の豪商近藤家

 

出陣学生壮行会が立て続けに挙行される前の10月16日、もめにもめた早慶戦がようやく戸塚球場で開催された。敵性スポーツと見做した軍部の弾圧が、早稲田大学の当局を激しく揺さぶって壮行試合の開始を妨げたのである。

「ひとたび戦地に赴けば生きて故郷の、そして学び舎の土を踏むことは叶わないかもしれない。せめて最後の試合を、できるならば早稲田とやりたい」慶大野球部キャップテン阪井盛一と平井新部長は、小泉信三塾長に申し出た。学徒出陣壮行会も目の前に迫ってきた。手遅れになっては悔いが残る。小泉塾長も「出陣する学徒たちに何か餞(はなむけ)を。それは早慶戦がふさわしい」と、考えた。学生野球の聖地明治神宮野球場で早慶戦を行うことを早大野球部顧問・飛田穂州へ申し入れた。

しかし早大総長田中穂積は軍部や文部官僚の圧力に負けて、開催に難色を示した。在野精神を謳う早稲田の心意気は早大野球部に燃え広がった。大学当局の反対を押し切って、野球部として責任をもって試合を実行することを決意したのである。

試合当日が迫ってきても早大当局は許可をしなかった。そんな最中に、「16日13時試合開始」という新聞記事が、故意か偶発かは解からないが出てしまった。出し抜かれた格好の早大当局は慌てふためいたが、「覆水盆に還らず」である。

  最後の早慶戦で。慶応の応援団
 
最後の早慶戦で。慶応の応援団

正午に開始されたこの最後の早慶戦は、一般には公開されず両校の学生と部員の家族、野球部OBだけが観戦を許された。近藤朔のお目当ては、慶応の4番バッター別当薫であった。近藤の故郷鳥取県と隣り合わせの兵庫県出身なので、親近感を抱いていた。別当は前年の六大学野球春季リーグ戦で5割の高打率で首位打者になったスラッガーである。

試合は10対1で早稲田が勝ったが、勝ち負けは関係なかった。両校のエールの交換のあと、「海ゆかば」が球場内に厳かに響き渡った。「戦場で会おう」という声があちらこちらで飛び交った。

この最後の早慶戦で、早稲田の3番でレフトを守った近藤清は、神風特攻隊の隊員となり沖縄で戦死している。9番でショートの永谷利幸も中支戦線で戦死した。

近藤朔とヒコーキとの最初の出会いは、鳥取県日野郡根雨の幼稚園児であった7歳のときである。教室の中でゴム動力のヒコーキを先生が飛ばしてみせたのである。教室内を悠然と飛ぶヒコーキを驚きの目で追いながら、ぼくも作りたいという強い衝動にかられた。いままで気にも留めていなかったが、幼稚園の入口近くに模型屋さんがあった。行きも帰りも、この模型屋さんの店先にたたずんで模型を眺めるのが日課になった。このときから近藤は飛行機という乗り物にとりつかれたのである。

1936年、日本ではじめてエンジン模型が発売された。一基50円(当時大学卒の初任給は40円くらいだった)という高値では、14歳の近藤には手がでなかった。近藤はおばあちゃん子だった。かわいい孫のおねだりに、おばあちゃんはポンと50円を出してくれた。

近藤家は中国地方きっての名門として鳴らした素封家であった。

江戸時代から大正期までたたら製鉄で栄え根雨の近藤家。江戸時代後期に建てられた  
江戸時代から大正期まで、たたら製鉄で栄えた根雨の近藤家。江戸時代後期に建てられた
 

近藤喜兵衛が日野郡笠木村に製鉄所を設けて“たたら製鉄”を創業したのは安永8年(1779年)である。老中田沼意次が幕政で権勢を誇っていた時代である。

日野や出雲の山々は風化した花崗岩や安山岩から成り、それが純良な砂鉄を含んでいた。当時日本の鉄はこの砂鉄と木炭を原料にしてつくられており、日野の砂鉄は真砂(まさ)とよばれ殊のほか純良であった。

近藤家は根雨の土着ではない。近藤喜兵衛は備後喜兵衛ともいわれ、その名の通り備後国(広島県)から一家をあげて、根雨に移住してきた。備後で得た資本を元手に製鉄業を創業して地主化した商業資本家といえよう。最盛期になると、近藤家は日野郡内に61カ所の鉄山と78カ所の製鉄工場を経営した。日野の3人に1人は何らかの形で近藤家の事業にかかわっていたという。「たたら」とは「踏鞴」のことであり、足で踏んで空気をひきこむ大きなふいごのことである。歌舞伎の所作で「たたらを踏む」というのは、このたたらを踏む動作からきたものだ。

隆盛を極めたたたら製鉄も、1877年の西南戦争あたりを境に衰退の一途をたどった。

第一の原因は大量生産による安い輸入洋鋼が和鉄の市場を奪っていったからだ。1873年には、鉱物資源の国有化と国家による採掘権の独占を定めた「日本坑法」が発布され、鉄山師に鉱区の借区税を払う義務が課せられた。これが重い負担となった。そこに日本経済の不況の追い打ちである。こうした時代の荒波を食らって、たたら製鉄の屋台骨は徐々に崩れていき、1921年に入ると、すべての鉄山の操業が停止された。

近藤家の家屋は日野町根雨の出雲街道に面したところに現存している。宿場町の面影を色濃く残し、参勤交代の道筋にあたる古色蒼然とした旧家のたたずまいは、映画八墓村のロケ地にもなった。

(文中敬称略)

◎次回は10月11日に掲載します。

プロフィール

  • Uchida pr
    内田 東

    1938年東京都生まれ。早大文学部国文科卒。62年電通入社。本社宣伝技術局に配属され、キリンビール、三菱電機、アデランス、味の素などの広告キャンペーンに参加。朝日広告賞、毎日広告賞、カンヌ国際広告祭、全日本CMコンクール、日本雑誌広告賞などを受賞。電通中部支社マーケティング・クリエーティブ局長、目白大学社会学部メディア表現学科教授などを歴任。東京コピーライターズクラブ、日本広告学会会員。

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