電通を創った男たち #59

コピーライターを

いちばんたくさん送りだした人

近藤 朔(3)

  • Uchida pr
    内田 東

マニラ空港は火の海だった

 

近藤家には慶応義塾大学の出身者が多い。近藤一族の勝瀬八郎治とその弟近藤房吉も明治初年の慶応義塾に学んでいる。しかし明治の初めに周囲を山で囲まれた根雨の辺地から東京へ出て行くのは簡単なことではない。明治23(1890)年、ラフカディオ・ハーンは東京を発って赴任地の島根中学校へ向かった。姫路まで汽車で行き、そこからは人力車の旅となる。日本海側の島根へ出るまで何と4日間を要したという。お金もかかったが体力も必要とした。近藤家の若者たちも東京へ出るためには、人力車での長旅に身体をゆだねなくてはならなかった。

近藤朔の祖父の房吉(山陰合同銀行根雨支店長)も父の馨一郎(造り酒屋“日本海”を経営)も、慶応義塾出身である。朔も当然のように慶応義塾へ入学した。近藤朔の一人娘の緋紗子は横浜雙葉で学んだあと、推薦で上智大学のフランス語学科に入った。喜び勇んで父に報告すると、朔はまったく浮かない顔をしたという。なぜ慶応にいかないのかというのだ。それほど近藤家と慶応義塾大学との因縁は年季がはいっていた。

太平洋戦争が始まるころには、小学校の4~5年から模型飛行機の工作が行われるようになり、高1、高2では模型の授業が正科になった。模型飛行機は兵器だ!いう認識が広がり、近藤が模型飛行機の大会に模型を持って行くときなど、軍関係者が2等の汽車に乗せてくれたりした。戦争中にもかかわらず、東京まで模型のエンジンを買い求めに行ったりした。空襲警報が発令されている最中に、京都の練兵場で模型飛行機を飛ばしていても誰もとがめはしなかった。

こうした飛行機マニアであったから、学徒出陣後、近藤朔は当然のように海軍の飛行専修予備生となった。ある日、近藤はフィリピンへ向けて飛行した。マニラの上空に着いて空港を見ると火の海である。遅れたのが幸いしたのか、もし早めに到着していたら爆撃にあって飛行機もろとも命までもふっ飛ばされていたにちがいない。と、娘の緋紗子に語ったことがある。

戦後の1962年8月、近藤はイギリス近郊のロイヤルケンリーエアポートで行われた第2回ラジオコントロール世界選手権大会に、加藤某とともに日本人として初めての出場を果たした。模型飛行機の世界のレベルを知ることができるという期待で胸をわくわくさせながら、終始ニコニコと模型飛行機を飛ばした。現地の雑誌に“エンジョイしながらフライトをしている日本人”という見出しで写真が載った。成績は14位だったが、ソ連には勝つことができた。大会後、スイス、ドイツ、フランスなどのヨーロッパを回り、アメリカへまで足を延ばした。500$しか持参できなかった時代だから、倹約を重ねながら1カ月あまり貧乏旅行を続けた。模型で知り合った外国の友人たちが大勢いて、その人たちが泊めてくれたからできた海外旅行だった。

1950年頃の日本電報通信社(現電通)本社ビル  
1950年ごろの日本電報通信社(現電通)本社ビル
 

1948年慶応義塾大学法学部を卒業後、株式会社日本電報通信社に入った。電通と社名を改称したのは1955年になってからである。

広告表現とくに文案のことは誰も手ほどきをしてくれなかったが、近藤はこの仕事が性にあっていた。「好きほどものの上手なれ」ではないが、入社5年目にして、広告八火賞という広告表現を競う社内コンクールでグランプリをとっている。女性の美しい脚線美のイラストレーションに「あしもとにご注意!」と書かれたグンゼの婦人靴下の広告である。受賞後次のような感想を述べている。「ふだんの仕事には必ず何か制約があるのだが、八火賞の応募作品をつくるときはまったく自由だから苦しい。すべてが自由なだけに、あれこれ迷う」といっている。自由の方が仕事がしやすいように思われるが、そうではない。これはプロのもの書きの感覚といってよい。同じようなことをアメリカの詩人ローバート・フロスト(Robert frost、1874~1963年、ニューイングランドの田園詩人と呼ばれた)もいっている。「自由詩を書くのは、ネットなしでテニスをするようなものだ」といい、定型詩のように制限があった方がつくりやすいし、よいものができるというのだ。

近藤が文案(当時はまだコピーとはいわず、文案・図案といっていた)を考えるときの方針は、「その広告の対象となる人々の、血の通った実生活のなかに自らをもっていきながら、そこに楽しい雰囲気をつくりあげるように心がける」ことだという。

 
 
「明治クラッカー」の広告

明治クラッカー(注:同商品は現在発売されていません)のコピー。「奥様に名案 朝はクラッカーで、スナック〈軽い食事〉を」お嬢さま方には美容食にもなりましょう。奥様にはお台所の手間も時間もはぶけます。お勤めの朝は忙しいから…。発育ざかりのお子さまに。ビールのおつまみに…と、TPOに応じてターゲットへ噛んで含めるようなきめ細かいアプローチを試みる。対象者の実生活のなかに自らをもっていくことへ、近藤は神経質なほど気を配った。

(文中敬称略)

◎次回は10月12日に掲載します。

 

プロフィール

  • Uchida pr
    内田 東

    1938年東京都生まれ。早大文学部国文科卒。62年電通入社。本社宣伝技術局に配属され、キリンビール、三菱電機、アデランス、味の素などの広告キャンペーンに参加。朝日広告賞、毎日広告賞、カンヌ国際広告祭、全日本CMコンクール、日本雑誌広告賞などを受賞。電通中部支社マーケティング・クリエーティブ局長、目白大学社会学部メディア表現学科教授などを歴任。東京コピーライターズクラブ、日本広告学会会員。

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