電通を創った男たち #60

コピーライターを

いちばんたくさん送りだした人

近藤 朔(4)

  • Uchida pr
    内田 東

コピー十日会に参画

 

「長い原稿が苦手です。なかなか書けません。その原因は、頭の中で省略するクセがついているせいかなー」と近藤は苦笑したことがある。コピーは“一行の力”などと囃したてられて、短文で的を射た表現に行きつくまで骨身を削るクセがついている。「十五枚といわれれば、やっとの思いでそれだけ書きます。読み直すとき、つい削ってしまいます。結局は十二枚分。オグルビー(David Ogilvy=現代広告の父といわれるコピーライター)に“タイトな文章”という言葉を教えられました。慰められた思いでいることを告白します」。

「近藤さんは、あまり声の大きい人ではなかった。どちらかといえば、小声で、耳もとでぼそぼそとささやくようにものをいう人だった。だから、傍からは、なにか重要な出来事を耳うちしているようにみえて、じつは、ゆうべの横浜球場の結果だったりすることがよくあった」と土屋耕一はいう。さらに「近藤さんは、その広告のつくり方を見ても、やはり、大きな声を張り上げて周囲を制するようなコピーは書いていない。その声柄は、あくまでも、洋風で、おしゃれで、かっこよかった」と振り返る。

近藤は絶叫型の広告を毛嫌いした。「耳だけ目だけへの刺激過剰の広告が、依然としてあとを絶たない。〈説得〉と〈強制〉をとりちがえた理不尽なハード・セル。しかも、これ式でなければ物は売れない、と信じこまれた広告。まさに、ひからびた感情の世界のものというほかはない。この一派とは早急に対決しなければならない」。近藤にしては珍しく語気を強めて、絶叫型の広告一派を批判している。そして「自らが意識して、楽しく書かないと広告は読んでもらえない」と、自分にいい聞かせるようにつぶやいた。

 
昭和31年の辞令と当時のころの近藤朔
 

日本宣伝美術会は1957年に結成され、ADC(東京アートディレクターズクラブ)もすでに活動していたが、コピーライターの組織だけがなかった。広告制作スタッフとしてアートディレクターやイラストレーター、写真家の名前は記載されたが、コピーライターの名称はどこにも見られなかった。コピーライターの存在感がきわめて低く、スタッフとして認識されていなかったのである。

「広告制作に作家としてのコピーライターが参加しているかいないかは、広告をひとめ見ればわかる」と上野壮夫は断言した。「コピーライターには音楽家とか詩人等と同じような精神活動を要求される。商品についての知識はもちろんであるが、やはり社会生活や人間関係についての鋭い感受性とあたたかな理解がなければできない仕事のように思われる」。

この上野壮夫の発言をきっかけに、コピーライターの有志が集まることになった。1回目の集まりが1958年1月10日だったので“コピー十日会”と名づけ、毎月10日に集まって、まだ黎明期にあったコピーライターの仕事について語り合うことにした。アートディレクター系から遅れをとった、コピーライターの専門作家としての地位の確立を目指すことになった。

上野壮夫(花王)を代表に、村瀬尚(森永製菓)、土屋耕一(資生堂)、蟻田善造(高島屋)、菊池孝生(森永乳業)、近藤朔などコピーライターは15名、アートディレクターズクラブから向秀男、山城隆一も加わって十日会は17名で発足した。「ことばと視覚的映像との適切な結合を重視する」という上野壮夫の考え方から、アートディレクターの2人にも参加してもらったのである。

発足から4年目の1962年になると、主要新聞三紙の元旦号は36ページと増え、大きなスペースの広告が紙面をにぎわせた。産業経済新聞が12ページの見開き広告を掲載したのもこの年である。翌年になると中央・地方10紙の広告スペースの平均は40%に近づいた。こうした新聞広告の躍進とともに、すぐれた印刷広告を収録した『コピー年鑑』を刊行しようという機運が高まった。「年鑑出そうよ」が土屋耕一の口癖だった。西尾忠久が誠文堂新光社とかけあって、ようやく『コピー年鑑』発刊の目処がたった。

「コピー十日会という名は私的団体色が濃く、広く公的な場での活動が狭められがちなので、よりオフィシャルな団体名にすべきだ」と、近藤が会名変更の必要性を説明した。 これを受けて、1962年10月10日、コピー十日会は東京コピーライターズクラブ(TCC)という名称に変更した。近藤はこの年、電通宣伝技術局のコピーディレクターから局次長待遇に昇格した。

 
 
創刊された『コピー年鑑』

そして翌年の5月、待望のコピー年鑑が創刊されたのである。審査員は近藤など十日会のメンバーを中心に構成された。年鑑の創刊号で上野壮夫TCC会長は「コピー年鑑といっても、コピーだけを抽出したものではなくて、視覚的造形を含めた全体のでき栄えを基準に作品を選んだ」と選考基準を述べている。さらに「コピーライターは文章家である以上に、すぐれたアイデアとゆたかなビジョンの所有者でなければならない」と、文案とともにプランナーに軸足をおくべきだと強調した。

(文中敬称略)

◎次回は10月13日に掲載します。

プロフィール

  • Uchida pr
    内田 東

    1938年東京都生まれ。早大文学部国文科卒。62年電通入社。本社宣伝技術局に配属され、キリンビール、三菱電機、アデランス、味の素などの広告キャンペーンに参加。朝日広告賞、毎日広告賞、カンヌ国際広告祭、全日本CMコンクール、日本雑誌広告賞などを受賞。電通中部支社マーケティング・クリエーティブ局長、目白大学社会学部メディア表現学科教授などを歴任。東京コピーライターズクラブ、日本広告学会会員。

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