電通を創った男たち #63

コピーライターを

いちばんたくさん送りだした人

近藤 朔(7)

  • Uchida pr
    内田 東

電通第2クリエーティブ局長&東京コピーライターズクラブ会長

 

1970年、東京コピーライターズクラブ(TCC)の会員数は221名に達したが、このうち広告会社所属のコピーライターは半数近くの102名となった。広告会社所属のコピーライターがふえた現象を、クリエーティブ統合と関わり合いがあると決めこむわけにはいかないが、コピーライターの仕事の幅を広げたことは確かであろう。広告会社、制作会社所属のTCC会員の数は、この後右肩あがりにふえていった。1973年はTCCが誕生して10年がたった年に当たる。新人爆発の年といわれ、コピーライターの登竜門である新人賞は42名となった。内訳は広告会社18名、制作会社17名、フリー1名などである。ところが翌年の新人賞受賞者の内訳は広告会社7名、制作会社17名、フリー10名。フリーライター爆発の年となった。フリーの会員数は35名となり、TCC会員人口の10%をこえた。近藤はこの現象をみて、仮説ですがと前置きをして「60年代の高度成長の波にのって、コピーライターは自立できるようになった。そこでコピーライター一人一人が自個のアイデンティティーを探りはじめた。組織の中で“個”を生かすか、自個を中心に組織をつくるか、はたまた自分の翼を目いっぱい広げてマルチ人間になるか、それぞれ住み心地、居心地、座り心地を選んで職場を移った人が多かった時期ではなかったか」と分析している。

ここでいうマルチ人間とは、電通でいうとコピーライターが印刷物だけでなくCM制作まで手がけ始めたことをいう。近藤が「映像とことばの問題だが、アイデアが視覚化され、ビジュアル・コミュニケーション化している。いまや映像はことばの一部であり、逆にことばは映像の一部であるという関係が、広告表現の面ではなりたってきているのではないか」と指摘したのも、この時期に当たる。印刷は理性的で、電波は感性のメディアだといわれた。水と油のように分離してしまい交じりあえない仲ではないが、専門分化で慣らされてきた人間が、同じ広告表現という土俵のなかとはいえ、両分野にまたがってクリエーティブ作業をこなすのは、そう簡単なことではない。しかし印刷と電波のクリエーティブ作業の垣根は、次第に取りはずされていった。やる気があれば、いまだ経験していない分野の仕事に自由に足を踏み入れることができた。コピーライターが、自分が企画したCMの撮影現場で、自分が手がけたカタログの校正を行うといったマルチな姿が方々でみられるようになった。

 
電通クリエーティブ局でくつろぐ近藤
 

近藤は電通第2クリエーティブ局長の職にあった1979年に、TCCの会長に就いた。17名でコピー十日会としてスタートしたTCCは、近藤が会長を退任した1983年、東京ディズニーランドがオープンした年には499名に達していた。当初の30倍の会員数である。近藤は井戸を掘りつづけ、絶えず水を汲みあげてきたのである。

まだ近藤が部員をかかえていた部長のころの話である。例年新入社員が配属されてくる。「お誕生日おめでとう」と近藤からいわれて、WAKOの包装紙に包まれた箱を手渡された。WAKOというと三越や松坂屋のさらに上をいく高級ブランドであり、電通に入りたての社員は何事かと目を白黒させたものだ。宣伝技術局近藤部配属の新入社員は、誕生日にはみなこの銀座和光のお仕立券つきのワイシャツをもらった。和光はセイコーホールディングスの系列会社である。セイコーと電通との結びつきは深く、何か記念日というと必ずセイコーの時計が配られた。電通社員の家庭には、1,2個はセイコーの置き時計がみられるはずである。社員の退職記念もセイコーの時計と徹底している。

 
 
筆者・内田東の執務日誌

黄色い表紙の執務日誌があり、毎日の状況を報告する決まりになっていた。読み終えたという証拠にkというサインをして、翌朝デスクにもどされている。こちらが報告した内容の、批評が書かれていることもある。「12月31日(月)そうじなど…」と、年末だからさして報告することもない。赤いペンで1963 12.31 Hajime Kondoと、なぜか英文字でサインしてある。当時は年末の31日も、そして元旦も出社した。連絡(営業)はお得意さんの年始回りで忙しいがクリエーティブの局員はお酒を呑み、大きなでんまん(栗のはいった白あんのまんじゅう)をいただいて帰るだけだった。

近藤は新入社員に何気なく聞くことがあった。「明治からインスタント味噌汁が出るのだが、インスタントという代わりのことばはないかなあ」といったように、だ。「瞬間」とか「即」とか「たちまち」とか答えると、「ふ~ん、なるほどな。ありがとう」という。あとでわかったことだが、森永が「即席」というフレーズを使っていたので、それと対抗できることばを探していたのだ。因みに即席は新井静一郎が生み出したことばだ。もちろん参考にだろうが、近藤はそんな重要な事項をさりげなく新入社員に聞いたりした。ズル休みをして彼女と銀ブラをしていた新入社員が、近藤にばったりと出くわした。翌朝出勤してバツが悪そうに顔をあわせたが、近藤は何もいわなかった。

(文中敬称略)

◎次回は10月25日に掲載します。

プロフィール

  • Uchida pr
    内田 東

    1938年東京都生まれ。早大文学部国文科卒。62年電通入社。本社宣伝技術局に配属され、キリンビール、三菱電機、アデランス、味の素などの広告キャンペーンに参加。朝日広告賞、毎日広告賞、カンヌ国際広告祭、全日本CMコンクール、日本雑誌広告賞などを受賞。電通中部支社マーケティング・クリエーティブ局長、目白大学社会学部メディア表現学科教授などを歴任。東京コピーライターズクラブ、日本広告学会会員。

バックナンバー

関連記事

続きを見る
ページ先頭へ