電通を創った男たち #67

戦後日本を代表するプロデューサー

小谷 正一(2)

  • Okada
    岡田 芳郎

断りに行ったつもりが入社――吉田秀雄のトリック

 

小谷正一は、前回紹介した大仕事で後に名を残したが、それとともに数々の名プランの推進で才能を発揮した。新聞連載小説の作者名を隠し読者に当てさせる“覆面小説”(坂口安吾『信長』)、ラジオの野球放送に初めて解説者を起用(中沢不二雄)などの新機軸、升田幸三七段VS木村義雄名人の五番勝負と棋譜連日掲載、朝日新聞招聘のバイオリニスト、ユーディ・メニューインの新日本放送独占放送(放送権獲得競争のきっかけ)、西宮球場の闘牛大会、阪急百貨店の欧州名作絵画展、など戦後日本の話題を作った事業が印象深い。

小谷は大学生時代、松平長七郎というあだ名がついたほど、ニヒルで端正な顔立ちだった。小谷をモデルにした井上靖の小説『闘牛』には、「いつも筋のぴんと入ったズボンを履いて、人との応接も仕事の捌きぶりも敏捷で時には冷たく思われるほど切れていた。彼とて敵はあった。金使いが悪いとか、気障だとか、エゴイストだとか、スタイリストだとか、文学青年だとか、たしかに一面そうした連中の非難もあたってはいたが、そうした彼の欠点がそのまま従来の社会部記者とはどこか違ったある知的な雰囲気を彼の周囲に形造っている」とあり、足立巻一の『夕刊流星号』には、「どこで手に入れたのか舶来仕立てのようなダブルの背広で痩身を包み、顔も色白で女形のような印象だったので、誰が見てもスマートなモダンボーイだった」と描かれている。これらはほぼ正しく若き日の小谷の姿を伝えているように思われる。一頃、大阪のマスコミ界では小谷は「パッカードに乗った次郎長」と呼ばれていた。アメリカ車を颯爽と乗りこなし、難局を乗り切るにはインテリヤクザの辣腕を利かせることもあったのだ。

小谷正一が電通に入社したのは、1958(昭和33)年夏だ。それまで小谷は、毎日新聞をふりだしに、新大阪新聞、新日本放送、ラジオテレビセンター、大阪テレビ放送とめまぐるしく仕事の場を変えてきた。課せられた難題を解決すると未練を残さずその場を立ち去った。

「年越しの名刺は持たない」が彼のダンディズムだ。この時すでに小谷正一は伝説の男だった。

小谷が大阪テレビ放送を辞めたのを知ると、吉田秀雄は電通に強引に誘った。

  吉田秀雄のブレーンとして共に行動することが多かった
 
吉田秀雄のブレーンとして共に行動することが多かった

数年前、新日本放送を辞めたときも誘われたが断ったいきさつがある。今回は社長が会いたいというので誘いを断るために銀座の電通本社ビルに行くと、吉田社長はいきなり幹部社員の集まっている8階ホールに小谷を連れて行き、壇上に上がるとにこやかな顔でこう言った。「会議に入る前に皆に紹介する人がいる。日本で最初に民間放送をつくった小谷正一君が電通に入社することになった。今日ここに来ているので紹介する」。

小谷はまんまと計略にかかった。

以前、新日本放送を発足させるに際して広告料金策定の相談に乗ってもらった時から、小谷は吉田の包容力ある人柄に魅せられていた。強い信念と時代を読む先見性がある。今回も断りに来ながら、たぶんこうなるだろうと予感はしていたのだ。 

ラジオテレビ総務を1年半あまり務め、小谷がラジオテレビ局長として放送メディアの現場責任者の役割を受け持ったのは1960(昭和35)年4月、47歳の時である。そして小谷はラジオテレビ局長という役職とともに吉田社長のブレーンとして行動することが多かった。

1961(昭和36)年4月、吉田社長がニューヨークで開かれたIAA(国際広告協会)年次大会で「アドマン・オブ・ザ・イヤー」という国際広告界のグランプリを受賞したとき、小谷も同行した。

IAA年次大会出席のため訪れたニューヨークの街角で  
IAA年次大会出席のため訪れたニューヨークの街角で
 

この旅行で小谷が吉田を広告の権化だと感じた出来事があった。羽田空港から飛び立った太平洋上で、小谷はほんの軽い気持ちで広告の手数料はなぜ15パーセントなのか、と聞いた。吉田は答え始めた。話はすぐ終わるかと思ったがどこまでも広がり、掘り下げられ広告界の変遷の物語は果てしなく展開していった。

小谷がふと時計を見たときは午前3時半、サンフランシスコに着く3時間前である。

「すこし眠りましょうか」と小谷が切り出すまで吉田は話を止めなかった。

小谷は電通に入るまで広告にさして関心をもっていなかった。しかし吉田の広告を日の当たる職業にし、一流の業界に押し上げようとする激しい欲望と、時代を読む先見性、現状への強い危機感、目的達成を求めるハングリー精神に心を打たれた。

「アメリカじゃ広告業は弁護士と同じだ。それだけ日本の広告業の仕事が古臭く、低いんだ。押し売りと広告屋は裏口へ、と張り紙のある会社は今でも現にあるじゃないか」

吉田秀雄はかつて木原通雄に求めていたものを小谷正一に求めた。それは若い社員が目標とするべき新しい電通人像であり、電通がスペースブローカーから脱皮して頭脳で勝負する新しいビジネスに転換するシンボリックな存在だった。ある日吉田は小谷に「君に頼みがある」と言った。「プランニングの旗振り役をしてほしい。これが広告代理業の仕事の本質なんだ。宣伝技術やラジオテレビの番組企画では専門家が育ってきてはいる。しかしもっと大きな意味で広告ビジネスの思想と方法をこれから深めていかなくてはならない。これが我々の仕事の方向を決める。電通全社員がクリエイティビティを持ち、プランナーになるよう意識改革せねばならぬ。具体的にどうするか追々相談しよう」。

ところで吉田秀雄は何かと口実をつくっては小谷にゴルフ道具や背広や靴をプレゼントした。小谷が受け取ったゴルフセットだけで7組もある。背広とオーバーは27着に及んだ。ちなみに吉田は贈り物魔であり、それが酒の呑めぬ彼のコミュニケーションの方法だった。小谷は受け取った品物のほとんどを部下や知人に回した。受け取った品をどうするか吉田が見ていると、小谷なりに理解していた。そうでなければ次々とゴルフ道具や服や靴を寄こすわけはない。吉田は人間観察魔でもあった。

(文中敬称略)

◎次回は11月29日に掲載します。

プロフィール

  • Okada
    岡田 芳郎

    1934年東京都生まれ。早大政経学部卒。56年電通入社。コーポレート・アイデンティティ室長、電通総研常任監査役などを務め、98年退職。著書に『社会と語る企業』(電通)、『観劇のバイブル』(太陽企画出版)、『日本の企画者たち~広告・メディア・コンテンツビジネスの礎を築いた人々~』(宣伝会議)など。

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