電通を創った男たち #68

戦後日本を代表するプロデューサー

小谷 正一(3)

  • Okada
    岡田 芳郎

プランニングセンターと吉田の死

 

1962(昭和37)年7月、小谷正一は電通にプランニングセンターを創設した。吉田社長と相談しアメリカの広告会社のアイデア発想グループを参考にしてつくった組織である。プランニングセンターは、東京(29名)、大阪(15名)、名古屋(7名)、九州(3名)、北海道(2名)の各営業所に配置され、小谷は役員室付局長・本社プランニングセンター主幹となった。プランニングセンターは名簿の本社組織の最初に置かれ、他の部門とは違う特別扱いだった。

  小谷がプランニングセンターの意義を語った『社報号外電通人』の記事(昭和37年9月5日号)
 
小谷がプランニングセンターの意義を語った『社報号外電通人』の記事(昭和37年9月5日号)

広告代理業は相変わらずスペースブローカーが仕事の中心だったし、社員の意識も仕事の仕方もすべてが旧態依然としている。ラジオテレビのビジネスが始まってもその根っこは変わらない。小谷と吉田が話し合ったのは、根っこを変えるには新しい旗を立て、そこに向かって全社員を進ませることである。

アイデア、プランこそがこれからの広告代理業の生命線だ、というのが二人の共通認識だった。

「この組織をテコに電通を脱皮させよう。プランニングセンターの諸君には俺が直接訓示する。そいつらをまず徹底的に鍛えねばいかんな」。

しかしこの時、吉田秀雄の身体はすでにがんに冒されていた。

常に陣頭指揮を取り、電通を引っ張ってきたリーダーが病の床に就いた。吉田がプランニングセンターのメンバーに訓示する機会はなかった。

小谷は新組織を、マーケティング・プランニング、クリエイティブ・プランニング、メディア・プランニングの3つの部に構成した。統一性、一貫性のある広告計画を立案する作業がこの組織でできた雛型をもとに、ようやく広く全社的に行われるようになった。

当時、あるアメリカの広告会社の中に、「ティンカー・グループ」という組織があり、ルーティンワークはせず、ホテルをオフィスにして自由にアイデアを発想し業務に結びつける仕事をしていた。プランニングセンター構想にはティンカー・グループの存在もヒントになった。

さらに小谷正一は「3(サン)ズ主義」を掲げた。

 
 

1. 得意先に会わず
2. プロダクトチームに入らず
3. 企画書を書かず

 
 

この3つを原則にした。ルーティンワークに埋没してしまっては、わずか30名足らずの組織では大した役割は果たせない。便利屋になるだけだ。営業部長に強力な武器を提供すること、ヒント、アイデア、プランを提供し、具体策は日常のプロダクトチームにバトンタッチするという考え方である。だが実際には社内からの抵抗が大きく原則通りにはなかなかいかなかったが、理解してくれる心ある営業などを中心に段々浸透していった。

プランニングセンターがスタートしてすぐ組織全体で取り組みはじめたのは、「プレゼンテーション」に関するマニュアル作りである。当時、プレゼンテーションという用語もまだ電通内ではほとんど使われていなかったし、得意先への提案の方法は営業担当者によってまちまちだった。スペースブローカーとしての広告会社ではプレゼンテーションの技術を高めることはあまり考えられていなかった。

しかし1962年には東レと資生堂の「シャーベットトーン」共同キャンペーンが行われ、ファッション・カラーが提案されている。異業種間キャンペーンも試みられるようになっていた。広告会社はプレゼンテーションによって得意先に企画を提案し、また新しい広告主を開拓していく必要を感じはじめていた。

プランニングセンターは全員で取り組む作業として、「プレゼンテーション・マニュアル」の制作に取り掛かった。コンセプトに基づいたキャンペーンを複数のメディアを使用して展開するという今日の広告計画の枠組みがこの頃できたのである。プレゼンテーション・マニュアルは6カ月以上かけて完成し、社内に発表され、日常的に使われるようになった。

この「広告計画作成とプレゼンテーション」のフォーマットはその後、ことあるごとに作り替えられ今日に至っている。

プランニングセンターは電通ではじめてできた横断的組織であり、各部門のメンバーが揃っていたため、全体を見通す作業が支障なくできた。

吉田社長は1962年1月に訓示を社員に配布し、「我々の原動力は広告における 一、科学的作業意識 一、芸術的創造意欲 の二本に絞られる」として、この2つを全社員に強く訴えた。プランニングセンターはそれを組織として形にしたものだろう。

プランニングセンターが軌道に乗りはじめた1963(昭和38)年1月27日、吉田秀雄は59歳で胃がんのため亡くなった。

翌日、小谷正一は主幹室に終日閉じこもり,日比野恒次新社長が葬儀に読む弔辞を書いた。ようやく夕刻書き上げて室を出て来た時、平素は決して見せぬ乱れた髪でひげがうっすら伸びていた。ネクタイがほどけかかり、悲しみが全身からしたたりおちているようだった。

プランニングセンターは電通のプランニングの源泉であり、その後いくつかのプランニング、プロデュース部門に引き継がれている。小谷は、自分が最も大切にするものは、「自由」だと常々語った。プランニングセンターは会社の組織として最高度の自由を持っていた。主幹の小谷正一は役員室付局長であり、小谷の上司は吉田社長で他の役員は間に介在しないのだ。どんな領域の仕事もできた。どのディビジョンと組むこともできた。本社だけでなく、支社、支局からもさまざまな相談が来、全国を飛び回った。数多くの外部の人材と交流した。ここにはなにかをやりたくてうずうずしている人間がいた。プランニング、プロデュースの仕事は、ものづくりへの執念があってすべてが始まる。

プランニングセンター設立時の記念写真。小谷を中心に、銀座電通ビル7階に全員が顔を揃えた  
プランニングセンター設立時の記念写真。小谷を中心に、銀座電通ビル7階に全員が顔を揃えた
 

それは広告に限らずあらゆる創造的な仕事に共通するものだ。プランニングセンターは自由であったがゆえに、まだ誰も取り組まない領域、テーマ、方法への渇きをいつも持っていた。だからプランニングセンターを源にさまざまな営業テーマが生まれ、やがてマーケティング局、都市開発センター、コーポレートアイデンティティ室などが巣立っていったのである。

小谷は吉田秀雄の死後1年経って電通を辞めた。51歳の時である。小谷は吉田秀雄への敬愛のゆえに電通に入社したのだ。自由こそが最も大事な価値である。顧問の肩書で70歳まで電通と関わりをもったがそれは電通の人間が好きだったからだ。優等生よりも欠陥をどこかにもつ人間を愛した。過不足ない人物よりどこか過剰でどこか抜け落ちている人物に惹かれた。電通にはそのような個性的な人間が数多くいた。彼らは小谷が出社しなくなっても小谷を訪ね話を聞きたがった。小谷も喜んで時間をさいた。数十人の電通の人たちとはいつまでも仕事や私的交際を続けた。

小谷の真骨頂は人と話をするのが好きで、“稀代の語り部” “話し魔”とでもいうべき人間だったところにあろう。オフィスにはいつも誰かが訪れていて、かならず時間超過で次の訪問客が待たされている。話の中で人を励まし、なにものかへ駆り立てることが、この人の天性だった。

そして電通に止まらず各界に小谷門下生といわれる数多くの有能な人材を生み、彼らはそれぞれ羽ばたいていった。

(文中敬称略)

◎次回は11月30日に掲載します。

プロフィール

  • Okada
    岡田 芳郎

    1934年東京都生まれ。早大政経学部卒。56年電通入社。コーポレート・アイデンティティ室長、電通総研常任監査役などを務め、98年退職。著書に『社会と語る企業』(電通)、『観劇のバイブル』(太陽企画出版)、『日本の企画者たち~広告・メディア・コンテンツビジネスの礎を築いた人々~』(宣伝会議)など。

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