電通を創った男たち #70

戦後日本を代表するプロデューサー

小谷 正一(5)

  • Okada
    岡田 芳郎

プロデューサーとはなにか 広告とはなにか

 

小谷正一がプロデューサーとしてなによりも尊重したものは独創であり、それゆえに1975(昭和50)年7月『中央公論』に自ら書いた「広告の五十年」で、片岡敏郎、吉田秀雄、杉山登志の各氏について愛情をこめて記した。そして独創を生む裾野としてのヒューマン・リレーションと心くばりを広告のリーダー・吉田秀雄氏に託して描き、独創を生む心としての真実追求と初心を天才・片岡敏郎氏に託して描き、独創を生む個性としての完全主義と美的センス・本物志向をクリエイター・杉山登志氏に託して描いた。

吉田秀雄のヒューマン・リレーションが小谷の「独創」を生む裾野となった  
吉田秀雄のヒューマン・リレーションが小谷の「独創」を生む裾野となった
 

プロデューサーとはなにか、それが小谷の人生の主題だった。折に触れて日本三景をたとえに、このことを語った。

「日本三景のうち、松島と天橋立は自然が作りだしたものである。しかし宮島は人間の発想と作業によるものだ。厳島神社の鳥居と社殿を海の際に建てた着想が宮島を日本三景の一つにした。誰がこのように卓越した着想を持ったか。それを推進したのは誰か。鳥居を海の中に建てるという発想には当然反対があったはずだ。潮が満ちているとき工事をどのようにするのか。余計な手間と経費がかかるではないか。

しかしその反対を押し切って多くの困難を解決して鳥居を完成させた者がいた。俗論を超えた見識と決断を持った存在があってはじめて建立された。そのような推進者こそ真のプロデューサーといえる」。

1983年に「年間最優秀プロデューサーを選ぶ会」の会長にかつぎだされたとき、取材に答えて語っている。

「甲子園の高校野球とか年末のNHK紅白歌合戦は国民的行事になっている。ところが最初にこれを企画立案した人物が誰なのか、誰も知らんでしょう。あるいは歴史をさらにさかのぼって、京都の祇園祭を考えついたのは誰か、と思うんです。おそらく疫病ばらいが起源でしょうが、コンチキチで現在でも八十万の人間を京都に集めてしまう。自然発生するはずがないから誰かプロデュースをした人間がおったはずです」。

多くの人をどれだけ喜ばせ、勇気づけたかを小谷は評価の基準にし、時代の唄をうたった“よみ人しらず”を大事にした。

1983(昭和58)年1月20日、ホテルオークラ銀杏の間で、電通社員による「小谷正一を送る会」が開かれ、180名が集まった。

満70歳をしおに小谷が電通顧問辞任を申し出、社長たちの引き留めを固辞し82年末で電通との縁が切れたのである。

田丸社長、梅垣副社長があいさつし、この会のために制作した「小谷正一いろはかるた」をスライドで映写した。小谷の50年にわたる仕事と性癖が48枚のカルタで要約された。

小谷正一いろはかるた 小谷正一いろはかるた
小谷正一いろはかるた
 

会の終わりに小谷が壇に上がり、別れの辞を述べた。
「僕は人を壇上に上げるために生まれて来たのになぜ僕が壇上に上がるんだ。しかし僕を壇上に上げる人が電通から出たことは僕にとって一面大変うれしい」
と小谷は話をはじめた。

「私が電通というところに四分の一世紀もいたということは、私にとっては屈辱のような気もするし、非常に光栄であるような気もしています。電通でいちばん感じたことは非常に風通しがいいということであります。とくに若い人と屈託なく語り合えたことが私にとって栄養剤になったと思っています。その若い人たちが今日集まった中高年になってしまったわけで、私はこの次のジェネレーションともっと話し込みたい。非常に水くさいですが今日の方々にはさようならといいたいのが私の心境であります」
と、ひねりのきいた惜別の言葉が続く。

小谷の話はいつもあらかじめ緻密な台本ができているかのような無駄のない言葉の運びである。小谷は電通で強い印象を受けた人々や自分の心境について語った。そして次の話で約30分の長いあいさつを締め括った。

「広告界に私が入った時、吉田社長はいつも叱咤激励していましたが、広告のことをどう言うかなと思って耳傾けていますと、『広告は販売だ』と言った。そんなことがキャッチフレーズで通っているのは、裏返してみると広告というものはお付き合いで出しているんだという風潮がどこかにある。そんな付き合いごとでなくて物が売れるようになるんだ、実際の効果があるんだということを強調しているんだなと思われました。広告はそういうところへ背伸びしているんだとひとりでそんな受け止め方をしていました。

その次に吉田さんは、『広告は芸術と科学だ』と言ったんで、ちょっといい恰好のことを言いだしたなと思いました。広告というのはそれほど高次元の作業ではないと見られているので、レベルアップしたいという悲壮な望みなんだなというふうに、私は新聞記者的に裏返して意地悪く解釈しておりました。

次に吉田社長が広告界で自分が最高の人物だと思う人に会わせてやると連れていってくれたのが,マッキャンエリクソンのスチルソン副社長でした。眼光の鋭い人で、これはただ者ではないと直感して即刻、『広告とは何かを一行で教えてほしい』と迫ったら、『一行で説明するのは難しいが、強いて言えばコミュニケーションだ』と昂然と言ってのけました。うーむとばかり私は考え込んだのをいまだに忘れません。マジソン・アヴェニュー何ものぞと思ったもののこの一言には正直、参りました。しかし電通は今や世界一の座へ上りつめていったのです。

  IAA年次大会で吉田のスピーチ原稿をチェックする小谷
 
IAA年次大会で吉田のスピーチ原稿をチェックする小谷

その会社を去るにあたって、広告というものは将来どうなるんだろうということを考えてみました。気の利いた文句は見つからないんですが、私が皆さんに言いうる私自身の結論を申しますと、『広告は文化だ』ということです。もっとキザに言えば、私が電通の壁に書き残してゆきたいのは、『広告は花だ』という一行です。広告人はそこへ背伸びをしていくべきじゃないか。

電通は今度は数字を質で証明すべきだ、といった命題がジリジリと攻めよせてくるような気がしています。それがどういうことを意味しておるかということは、まだまだ時間を必要としますので申し上げかねますけれども、またいつの日か皆さんとそのことを語り合える日があることを念じてやみません。

本夕はほんとうにありがとうございました」。

[完了]

(文中敬称略)

プロフィール

  • Okada
    岡田 芳郎

    1934年東京都生まれ。早大政経学部卒。56年電通入社。コーポレート・アイデンティティ室長、電通総研常任監査役などを務め、98年退職。著書に『社会と語る企業』(電通)、『観劇のバイブル』(太陽企画出版)、『日本の企画者たち~広告・メディア・コンテンツビジネスの礎を築いた人々~』(宣伝会議)など。

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