loading...

「新・日本力」の鍛え方No.3

グローバル化時代の
「デュアルスタンダード」と「編集力」

2015/01/22

2020年東京オリンピック・パラリンピック開催という追い風も受けて、今、日本の底力が問われようとしている。日本ならではの強みをどう生かし、日本の活力をどう取り戻していけばいいのか。古今東西の歴史と文化に精通し、日本文化研究の第一人者でもある編集工学研究所所長の松岡正剛氏と、元内閣府事務次官で現電通総研上席フェローの浜野潤氏が、今この時代に再認識すべき「新・日本力」の在り方について議論した。司会は、電通総研所長の中尾潤氏。4回にわたってお送りします。

浜野潤氏(電通総研上席フェロー)/松岡正剛氏(編集工学研究所所長)
 

日本的な資本主義があってもいい

浜野:松岡先生のお話を聞いて得心したのは、国際基準は国際基準として、その一方で、日本独自のルールがあってもいいということ。つまり、ダブルスタンダードがあっていいということですね。それが、「新・日本力」の創出を考えていく上で、一つの突破口になるのではないかと。

松岡:私はそれを「デュアルスタンダード」と呼んでいます。「ダブル」ではなく、あえて「デュアル」と呼びたい。今、何かにつけグローバルスタンダードが大事だといわれますが、日本が、歴史も文化も全く違う欧米の価値観やルールをそう簡単に受容できるとは思えません。日本的なデュアルスタンダードで、可用性・多重性のある仕組みがあっていいはずなのです。歴史を振り返ってみても、将軍と朝廷の存在はデュアルだったわけです。宗教では顕教と密教がそうです。全てが全てデュアルスタンダードである必要はありませんが、今、新・日本力を考えるなら、そのデュアルスタンダードができるところから進めたらいい。農業分野でいえば、日本のコメのすごいところはきちんと残していく対策が必要です。デュアルスタンダードの制度化が今ほど求められる時期はないと思います。

中尾:苗床のような種を育てる場の設置も、その一環というわけですね。

松岡:おっしゃる通りです。そのときに、一律の標準時計を当てはめるのではなく、その国ならではの自然時計や民俗時計というものがあっていいはずです。日本の農耕文化でいえば、春植えて、秋収穫するというサイクルがある。祭りは、夏祭りと秋祭り。あるいは、お中元とお歳暮という年2回の贈答時期がある。こういう文化・生活習慣は、四半期で区切りをつけるような今日のグローバル経済のルールとは全くリンクしていないわけです。株式会社の農業への参入が悪いとは言わないけれども、どこかで踊り場のような時間を設けておかないと、相当やばいことになると思っています。

松岡正剛氏

浜野:アングロサクソン型というか、米国式のモデルを追い掛けるのではなく、日本的な市場モデル、もっと言えば日本的な資本主義があってもいいということですね。

松岡:そうですね。キリスト教が日本で解禁されたのは明治時代になってからですが、一気に日本に広がるようなことにはなりませんでした。なぜかといえば、やはり日本人独特の宗教観や風土があるからです。新島襄も、奥さんの八重さんも頑張って、素晴らしいキリスト教社会をつくろうとしたけれど、一方で、内村鑑三のように、「二つのJ」ということを言い出した人もいた。二つのJとは、一つはJesusのJ、そしてもう一つはJapanのJ。つまり内村は、ジャパンに合うジーザスの教えを「日本的キリスト教」と呼んで唱えたわけです。内村鑑三がいう二つのJのようなデュアルスタンダードが、現代日本の経済原理としてあってもいいではないですか。日本はもともと儒教も仏教も入れて、神道も組み立てて、神仏習合的な大らかな信仰形態をつくり上げてきました。しかも、鎌倉新仏教のように、中国になかった浄土感覚を生み出し、日本的な禅もつくっている。枯山水の世界は中国にはなく、日本人の特別な美意識があったからこそ生まれたものです。スティーブ・ジョブズが驚いたように、あんな小さなスペースで、広大な世界観・宇宙をつくり上げたのです。

中尾:スティーブ・ジョブズは、余計なものは排除してとことん小さくして、いわば引き算で製品をつくり上げました。まさに、枯山水の引き算の美学と同じですね。

グローバルルールを日本化するスーパーエディター集団の必要性

浜野:それと、日本には、ガレージから世界を席巻するような起業文化というかムーブメントが生まれないですね。ベンチャーを支援しようという公的な制度はあっても、なかなかうまくいかない。部材では、世界ですごいシェアを持つ中小企業はたくさんあるのですが。

松岡:東京の蒲田や東大阪の工場の底力はみんな知っているのにね。

中尾:技術力はありながらも、ムーブメントを起こす以前の問題、つまり社会のムードというか、あるいは教育であるとか、そういう原初的なところに何か課題があるのでしょうか。

松岡:西郷隆盛が私学校をつくって、農業と軍事を若い者に教えようとして、それが不穏な空気に映ったので、僚友・大久保利通や山縣有朋も討たざるを得なくなりましたけども、西郷がやろうとした実験的な試みの意味はあらためて考える必要があると思います。時をずっと隔てて全く違う世界に、手塚治虫という漫画家がいた。手塚プロは、今のアニメ社会がとてもまねできないような、ものすごい実験をしていたわけです。ところが、そういう壮大な実験の先行価値は、経済的な合理主義にさらされてしまうのが常です。

浜野:グローバル経済の荒波にもまれるのはやむを得ないにしても、松岡先生がおっしゃるように、日本的資本主義を追求しようとするなら、デュアルスタンダードが一つの方向性だと思います。欧米の経済原理やルールを受け入れるとしても、プラスアルファを加えていかに日本的なものに改変していくか、そこが大きなポイントですね。

浜野潤氏

松岡:そこで問われるのが「編集力」です。グローバルルールを受け入れることはかまわない。ただし、そのプロセスで換骨奪胎していく編集力が発揮できないと、外交や交渉の場面で気おされるだけになってしまいます。そうならないためには、政治家だけに任せっぱなしにするのではなく、白洲次郎のように日本流の原理原則を貫く「換骨奪胎集団」、特別なエディターチームのようなものをつくるべきです。法律や経済、あるいはさまざまな分野の専門家を集めた100人ぐらいのタスクチームですね。幕末の薩長土肥の志士のようなもので、ごつごつした、熱い思いを胸に秘めた人間たちのスーパーチームです。

浜野:大賛成ですね。編集能力を持ったプロ集団。企業の経営トップや官僚も含めた、志を高く掲げる頭脳集団というのか、知的結社のようなものですね。グローバルスタンダードに対して逃げずに、むしろそれを一つのチャンスにして、逆に攻め込むような覚悟がないといけませんね。

松岡:おっしゃる通りです。だから、経営者や官僚に加わってもらうにしても、大胆な発想をし、危険な香りのすることにも果敢に立ち向かっていける人でないとだめです。新・日本力を構築していくために、「旧・日本力」のようなものはバシッと切り捨てていかなくてはいけないわけですからね。

[第4回(最終回)へ続く]