電通を創った男たち #71

社業に身をささげた男

阿部忠夫(1)

  • Uenosan pr
    上野 義矩

シャイで文武両道の少年

 

電通の常務取締役だった阿部忠夫は、現役のまま1992(平成4)年9月10日、56歳の若さで急逝した。実に早すぎる死であった。

彼は6年前に妻に先立たれ、そのため食生活が不規則であった上に、春秋の定期健康診断を7年間受けていなかった。業務多忙につき、という言い訳をしていたが、多分に自身の身体的頑健さを過信していたようにも思われる。死因は虚血性心不全であった。生活習慣病の典型例だといえる。

阿部忠夫は、1935年9月22日、東京に生まれたが、B29が頻りに飛来する戦況を迎え秋田へ疎開し、その翌年、終戦を迎えた。それからの8年間、高校を卒業するまで秋田県で過ごした。多感な少年期を疎開先で過ごしたことは、その後の彼の人格形成の上で、大きな影響を与えたと思われる。

司馬遼太郎は『街道をゆく』(秋田県散歩)の中で、こう述べている。

秋田県人は人間の秩序感覚に折り目があって、上下の礼儀や主客の折り筋がきっちりしているのである。
初対面の相手に平気でものを言ったりするところがない。
はずかしがりやが多く、内気(シャイ)だ。

司馬遼太郎『街道をゆく』秋田散歩
司馬遼太郎『街道をゆく』秋田散歩

たしかに彼は、そういう面を持っていた。しかし、付き合いの度合いが深まると内気さは消えていき、逆に人懐こい面が濃厚に表れてきた。

憶測に過ぎないが、秋田の方言で会話を交している小学校4年生の中に、東京の標準語をしゃべるヨソモノが突然混入してくれば、当然除外され、いじめの対象になったと思われる。その圧力を撥ね返すためには、強い心を持たねばならないし、鎧も被らねばならなかったと思う。そして何よりも大切なことは、地元生徒に対して、勉学と身体能力の両面で、優位に立つことであったろう。

「小学生の時は悪ガキ、中学はスポーツの万能選手、高校時代は人見知りする内向的性格だった」(『社報電通人』1989年12月号「新役員登場」)と本人が回想している。おそらく勉学の方も衆にすぐれていたに違いないが、テレ臭いせいか、触れていない。しかし秋田県ではトップクラスの進学校である秋田高校に合格しているのだから、人一倍勉強も出来たであろうことは疑いない。

1989年、取締役就任のころ
1989年、取締役就任のころ

秋田高校は、文武両道を旨とする校風であったらしく、野球、ラグビーなどスポーツで甲子園級の強さを誇っており、彼もラグビーを選んで活動したようである。

しかし、所属したのは応援団であった。何故応援団を選んだのか。前述の『社報電通人』によれば、感動を求めたかったことと、内向的性格を直したかったからだとしている。応援団で団長を務め、大学は学習院大学に入学する。

1950年代、60年代は、学習院はまだ、特別な大学というイメージが強かった。そもそも学習院は、1847年に京都に設立されたのであるが、生徒は全員、宮中に連なる公家、公卿たちであった。この院の設立には、諸外国から開港を迫られつつあった幕末の政治情勢が大きく関わっている。

1844年~46年にかけて、英・米・仏・露・デンマーク等の商船・捕鯨船・軍艦が相次いで来航し、鎖国を廃し、開港することを迫ってきた。江戸幕府は、彼我の戦力差に対する恐怖から、なし崩しに開港に踏み切らざるを得なかったが、諸外国と取り交わした条約が勅許を得ずに、幕府の独断で締結されたことから、尊王攘夷運動が過熱して行く。

その中心にあったのが、薩長の二藩であるが、その思想的なより処は、水戸藩が編んだ『大日本史』(1657年~1906年完成)であり、覇道ではなく王道こそが求められるべき政治であるとする尊王史観であった。それは、最終的には天皇親政を実現させたいという政治運動になっていった。 

ところが宮廷人は、1615年に制定された「禁中並公家諸法度」により、一切の政ごとから遠ざけられており、250年後の京都の公卿、公家たちは、時勢には全くうとく世界情勢にも関心を持たなかった。これでは天皇親政となっても朝臣として政治に携わることが不可能であったので、公家教育のために設立されたのが学問所としての学習院である。したがって学問の中核を占めるのは、政治論議となった。

その後、明治維新を経て、1877年に学習院大学となったが、学生は公家並びに華族(維新後に爵位を受けた者)の子弟から成っていた。

さらに下って、1949年宮内省管轄から文部省管轄に移行し、新制の私立大学として開学。法学部、経済学部、文学部、理学部の4学部を設置して、今日に至っている。そうは言っても、阿部忠夫が入学した1954年には、まだ一般庶民には敷居の高い大学というイメージが強く、彼が何故、学習院を選んだのか、その志望動機はわからない。

とにかく学習院大学に入った。文学部哲学科であった。ここには清水幾太郎という左翼的文化人として有名な教授がいて(1949~69年在任)、折からの日米安保条約反対運動の萌芽期にあたり、その中心人物の一人であったが、阿部忠夫も少なからず影響を受けたという。

とは言え、学習院大学誕生の歴史を省みれば左翼運動からは最も遠い、対極にある大学であり、彼もまた、清水教授の言動には違和感を持ったようである。それもあり、2年に進級する時に政経学部政治学科に転部した。

彼はからだを動かすことが好きであり、文科会系・体育会系の二分類法に従えば、明らかに体育会系の人であった。実際に入部したのは、高校時代と同じく応援団である。事実かどうかは不明だが、学習院も他大学同様に応援団単独所属は認められないため、彼は空手部にも籍を置いていたらしい。その上、ラグビーに対する愛着は終生変わらず、彼は秩父宮競技場か国立競技場の年間通し券を持っていて、冬場になると一人でも観戦しに行っていた。

(文中敬称略)

◎次回は1月25日に掲載します。

プロフィール

  • Uenosan pr
    上野 義矩

    1938年満州新京生まれ。京都大学文学部社会学科卒。63年電通入社。新聞雑誌局中央部を経て、総合計画室計画二部長。その後、能力開発センター室長。

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