電通を創った男たち #72

社業に身をささげた男

阿部忠夫(2)

  • Uenosan pr
    上野 義矩

広告の英才教育をうけて

 

1958年4月、彼は電通に入社した。

この時代、電通という企業の仕事を正しく理解して受験した学生は、おそらく皆無に近かったのではなかろうか。「広告の電通」というネオンが銀座本社の屋上にあり、新橋―有楽町間の国電の車窓からよく見えたが、「広告」を商売にする企業とは何なのか、一般人には分からなかったと思う。

多分彼も同じであったに違いない。電通にいた学習院の先輩(久松氏)から勧められたことと、無試験であったことが、電通を選んだ理由だと言うが、その後の犀利さから推すと、たとえ試験があっても、楽に受かっていたことだろう。

新入社員として配属されたのは、営業局地方部であった。

この部は、電通にとって歴史的な存在であり、社の経営に携わる幹部を数多輩出した。吉田秀雄第4代社長を筆頭に、日比野恒次5代社長、石川喜美次副社長、鎌田実副社長、成田豊社長、俣木盾夫社長ほか、枚挙にいとまがない。

1976年、川名ゴルフ場で成田常務、俣木局長(共に当時)と
1976年、川名ゴルフ場で成田社長、俣木社長と

この部に配属された社員は、当初から英才教育をほどこされた。ほとんど全ての新入社員は、電通が何をする会社なのか知らずに入ってくるわけであるから、広告とは何ぞやについて、イロハから教え込まれ、まるで広告学校の様相を呈していた。

電通はかっての媒体取り次ぎ業から、マーケティングとクリエーティブを重視する近代的広告会社へと脱皮しようとする時機にさしかかっており、社員の意識改革、体質改善に熱心に取り組んでいた。

第4代社長の吉田秀雄は、早くからアメリカの広告代理業の在り方と広告ビジネスについて研究していたが、社内の有志を集めて、定期的に原書講読会を主催し、広告業の社会的地位の向上を図りたいと考えていた。阿部が入社した時には、吉田秀雄はすでに社長になっていたが、吉田の情熱はそのまま熱心な社員教育となって受け継がれていた。集合教育があり、部ごとの教育があり、とにかく教育に熱心な社風があった。

吉田秀雄にとって、同じ東大で机を並べた学友たちが、それぞれ世評の高い企業に入社して、胸を張っているのに対し、己の身を預けた広告会社が社会的には、どうやら肩身の狭い職業であると気付かされた時、彼の自尊心は微塵に砕かれたに違いない。それは誇り高い彼にとって、耐えられない屈辱であったと思う。この屈辱感が原点となり、ここから彼は不撓の努力で広告会社の社会的地位向上を目指していく。

広告界の向上を目指した吉田秀雄(1957年、日本国際広告協会設立総会で)
広告界の向上を目指した吉田秀雄
(1957年、日本国際広告協会設立総会で)

広告会社は単なるスペース・タイムの売り買い業ではない。広告主と同レベルの、あるいは、さらに一歩先を行くマーケティング戦略を立案し、最終的に購買に結びつけるための表現(クリエーティブ・ワーク)を創り出さねばならない。

また、メディアサイドのビジネス環境を整えねばならぬ。そのためには、発行部数を公査する必要がある。その公認された部数によって、広告スペースの料金が定められるべきである。かくてABC協会の設立を見ることとなっていく。マーケティング活動において、まず始めにあるのは調査活動であり、それに基づいて分析を行う。このニーズに沿って、調査会社が誕生していく。

クリエーティブ・ワークの質的向上は非常に重要であり、アメリカのBBDOやDDBなどの影響を受けて、クリエーティブ・ブティックが多数誕生した。吉田は広告活動の要諦を、「広告は科学なり、芸術なり」と喝破しているが、この標語のもとに、電通(のみならず、広告界全体)の近代化を図って行った。

阿部忠夫が入社した1958年頃は、まさに広告界における近代化の大きな波が押し寄せている時であったが、同時に吉田社長の音頭取りで、社内中が広告学校のような教育の場と化していた。新入社員の阿部にとって、「広告」というビジネスは全くの門外漢であったから、無垢の白地に色を掃くように染み込んでいったに違いない。

彼は25年間、営業局(後に新聞雑誌局と改称)に在籍し、局次長に累進し、連絡局に転じ、その後、1989年に取締役となり、1991年、常務取締役に昇った。それは、吉田秀雄の播いた種子のDNAを受け継いだ者にとっては、順当な道程であったように思われる。彼は秋田人らしい、内気な性格を努力によって、積極的で活発な性格に変えていったのだろう。一見こわそうな風貌をしていたが、付き合いができれば、見かけとは全く違う、細やかな気遣いをする人であった。

どの部でも週に一度朝会がある。営業・媒体・協力部門などの各部において必ず朝一番に開かれる。部会の主催者は部長である。

朝会のテーマは各職場で異なるが、おおまかにいえば、ホー・レン・ソーの類である。部長からはそれぞれについて指示、命令などがなされ、月に一度ぐらいの頻度で社の目標、ビジョンなどが示される。この朝会は業務上の指針を与えると同時に社員教育の場でもあり、若手社員には課題を与え、次回に研究成果を全員の前で発表することになっていた。仕事の中の小さな歯車になりがちな若手を広告産業とは何かという大所高所から外れない視点を持たせようと促していたのだと思う。

阿部忠夫は、新聞雑誌局の地方部長から中央部長に転じて来たが、筆者はその時初めて彼の直属の部下となった。それまでは遠くから眺めていて何となく怖そうで強面なタイプだったので、なるべくそばに寄らないようにしていたが、いざ部下になってみたら、自分が勘違いしていたことがわかった。

シャイであることは間違いなかったが、仕事ではそうならないよう努めていた。よく一緒に各紙の局長級の方を訪問したが、ごく自然な感じで豊富な話題を次々と提供し、相手を飽きさせなかった。時には口の重い、人見知りの激しい方もいらしたが、まったくめげなかった。そういう人のところには、4日でも5日でもぶっ続けで訪問し、話題も尽きようかと思われるときも、5秒と沈黙が支配することはなかった。そうするうちに、お相手もだんだん打ち解けてきて、最後には非常に親しい間柄になっていた。怖そうな顔だという第一印象は薄らぎ、彼の見せる笑顔の優しさの印象の方が強くなっていった。

(文中敬称略)

◎次回は1月31日に掲載します。

プロフィール

  • Uenosan pr
    上野 義矩

    1938年満州新京生まれ。京都大学文学部社会学科卒。63年電通入社。新聞雑誌局中央部を経て、総合計画室計画二部長。その後、能力開発センター室長。

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