電通を創った男たち #73

社業に身をささげた男

阿部忠夫(3)

  • Uenosan pr
    上野 義矩

まごころの実践

 

広告会社は誇りの持てる会社にならなければならないし、誇りを持つことはよい。しかし、決して傲慢になってはいけない。それが彼の信念だった。

広告会社は産業分類上、第三次産業に分類され、さらにその中のサービス業である。「サービス」とは何か。それは無定形の役務の提供のことを言う。特定の製品を加工生産し、販売している会社ではない。社員一人一人がお取引先に対して、無定形の役務を提供していく。そういう仕事である。だから、社員一人一人が顧客満足度をどうすれば高められるのか、精進しなければならない。言葉遣いや礼儀作法もその一環だということを自覚せよ。

彼は部下にもそのように指導したが、自分自身も実践していた。これは彼が対処に腐心した事案であるが、ある文化イベント企画があり、著名な作家S氏に講演会でのお話しを依頼し、そのイベントは成功裏に終わった。ところが、講演料がいっこうに本人口座に振り込まれない。その理由をイベント担当者に問い合わせたところ、当社では請求書をいただかないと経理処理ができない仕組みになっておりますので、至急請求書を送っていただけませんか、と答えた。

これで作家S氏はキレてしまった。小説家、評論家、学者等は、芸能人と異なりプロダクションに所属していないしマネージャーもいない人が多い。企業人としてではなく、個人として活動しており、請求書を作成し相手に送付するなどというビジネス行為は≪個人としての作家≫の頭の中には初めから存在していない。こういう個人の場合には、請求書という形式が整わなくても、ギャラ支払いの手続きをこちらでするのは当然であり、電通は何サマのつもりなのか、と思ったのだろう。このケースでは大きな後遺症が残った。作家S氏がその経緯を電通を名指しで雑誌に発表したからである。

阿部忠夫からすれば、これは言葉遣いや礼儀作法以前の問題であり、電通社員たるもの仕事というものは入口だけでなく出口(経理処理)に至るまで、万事遺漏なきよう目を配っているべきだ、ということであったと思う。彼は雑誌発行後に担当責任者から詫びさせ、営業・媒体などの現場に、個人対象の会計処理の遅れが発生しないよう徹底するように指示を与えた。

同様な例が他にもあった。これも著名な作家O氏の講演会で、会場のセッティング(照明、スクリーン、音響など)が事前の打ち合わせと異なっていたため、O氏は怒りを発し、講演会をその場で中止して退場してしまった。その後、担当者が詫びを入れたが会うことも拒まれてしまった。この時も、阿部忠夫が丁寧な詫び状を持参し、何とか収まった、という。田丸元社長は、ある時電通の役員の役割の中には、仕事とともに大きな割合で冠婚葬祭があり、さらに「送迎・謝り」があると述懐した。

阿部忠夫の行動を見ていると、なるほどたしかにそういう面があるなぁ、と思わざるを得ない。お客さまへの接遇のしかたもそうであった。

お取引先を接待する。必ず15分くらい前に現場に到着し、部屋のチェックをする。上座・下座の確認と双方の着座の席順を決める。お土産を控えの間の人目に触れない衝立の陰などにしまわせる。お客さまが到着するまでは、入口近くの畳に座って待機する。お客さまが来られると、丁寧にあいさつをする。そろそろお開きの時間が近づくと、部下にお伴(ハイヤー)を見に行かせる。お土産は車まで持って、見送りに出る。このような接客作法は亡くなるまで続けていた。サービスは一分の隙もあってはならない、と思っていた。それを全社員に求めた。山本五十六と同じように、口で教えるだけではなく、率先して範を垂れた。

ホスピタリティを自ら率先して実践した
ホスピタリティを自ら率先して実践した

ゴルフ場でも同じだった。彼はお客さまが玄関に到着するまで、スーツ姿のままでいる。こちらが着替えを済ませてしまうと、仮に遅れ気味で到着したお客さまに、無用な焦燥感を抱かせることになるので、それを避けるのである。玄関でスーツ姿のまま出迎え、大丈夫、充分間に合います、と一緒に着替えに行く。

サービス精神とは、このような気遣いのことであり、これがホスピタリティなのだ。ゴルフも、ハンデ4を得るほど、アマチュアとしては名手であった。しかし、大切なお取引先とのゴルフでは、あまり実力を発揮しないようにしていた。自分はスポーツマンとして真摯にスポーツに取り組むことを旨として生きて来たが、ゴルフにはスポーツ以外の社交という要素がある。ただ単に距離や速さや得点を競う運動ではない。参加者が各人楽しめるように、ゲームとしての面白さがあり、そのためのハンデがある。要するに、純粋な「SPORTS ITSELF」とは異なっている。だから多少加減をして、相手に勝ちを譲ることは、決して邪道ではない。吉田秀雄が社員にゴルフを強く勧めた動機を考えたら、それは自明のことだ。われわれはサービス業なのだから。

彼は、部下の教育に熱心であったが、自分の信念を大上段にふりかぶって、多勢の前で演説をするようなことは余りしなかった。テレ性でシャイな面が出たのかもしれない。そのかわり、少人数の集まりでの座談は、抜群に上手であった。そういう機会に広告人はどうあるべきかを、説き聞かせるようにしていた。

ある時、新聞社の局次長が局長に昇格した。すると、筆者を呼んでお祝いは何がいいかな、と問う。考えあぐねていると、「あの人はゴルフをやらない人だから、ゴルフ用品というわけにはいかないな。背広が妥当なところかな」と自問自答している。そして、昼メシのついでに生地を選ぶからついて来い、と言ってみゆき通りの壱番舘に行く。その方の日頃のスーツは何色が多いかを筆者に聞き、渋紺を選ぶ。お仕立券を封入し、箱詰め包装、熨斗をつけ、明日ご自宅にお届けに上がれと指示をした。要するにこれは部下の教育である。相手の好みを察知し、合わせる。そして宅配便で送るのではなく、自分でご自宅まで持参する。それがまごころだ、と。

夜、銀座に飲みに行く時にも、有名なクラブに連れて行ってもらった。座るだけでひとり3万円以上するようなクラブだった。自分のような社員同士で来るような場合はもっと安いところにしましょうよ、と何度も言ったがやめなかった。若い者にも場馴れさせて、いざという時に気遅れしないようにという教育であったらしい。吉田秀雄社長の一流好み、日本一好みが受け継がれているようだった。一流クラブには有名人が集い、阿部の交友範囲はこういう場でも広がっていった。作家の渡辺淳一氏とも時々赤坂のクラブで出会っていた。渡辺氏は当時『週刊現代』に「風のように」という題でエッセーを連載していたが、1992年10月3日号の第170回に、阿部忠夫の急死について“納得できない死”として以下のように記している。

「9月10日、相模カンツリー倶楽部で彼と一緒にゴルフをした。午後2時半に上がり、クラブで軽くビールを飲み、3時半に解散した。4時半に家に着いて休息していたら、一緒にプレーをした水口氏から電話があり、阿部さんが帰りの車中で急に具合が悪くなったので、日大駿河台病院の救命センターに入院しましたが、大分悪そうだ。…しばらくして再度連絡あり、今息を引き取りました、と。

この知らせには衝撃を受けた。つい1時間少し前、一緒に風呂に入り、ビールを飲んでいたその人が今はもうこの世にいない。虚血性心不全だったというが、人の命の虚しさを思い辛い。さよならアベチャン。あの日払った1200円をとり返すことは、もうできないけど、静かに休んでください」。

『社報電通人』に掲載された訃報
『社報電通人』に掲載された訃報

(文中敬称略)

◎次回は2月1日に掲載します。

プロフィール

  • Uenosan pr
    上野 義矩

    1938年満州新京生まれ。京都大学文学部社会学科卒。63年電通入社。新聞雑誌局中央部を経て、総合計画室計画二部長。その後、能力開発センター室長。

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