電通を創った男たち #74

社業に身をささげた男

阿部忠夫(4)

  • Uenosan pr
    上野 義矩

阿部忠夫の遺したもの

 

彼の業績とは何であったろうか。電通という企業は、個人の個々の業績を挙げて、これがそうだ、ということが難しい。なぜならば、その人の事績は、具体的な形・ブツとして残らず、時間の経過と共に、記憶から消えていくからである。わずかにストックとして残るものは、クリエーティブ・ワーク・アーカイブと印刷物・出版物、計画実施報告書ぐらいである。彼はそもそも、あれをやった、これをやったと、自分の事績を等身大であれ肥大化してであれ他者に呈示することも全くしなかった。

彼が営業局長の時代、さまざまな広告主に対する競合プレゼンで高い勝率をあげているが、彼にしてみれば、プレゼンの内容を創ったのは、営業担当部長以下と協力部門のプロダクト・チームの営為であって、自分は指揮者であったに過ぎない。したがって、自分が誇るとしたら、指揮棒の振り方が良かった、ということだろうと思っていた。

阿部が営業局(連絡局)時代に直接担当した広告主は何十社もあったが、規模の大きさでいえばある家電メーカーがあった。電通は同業種の企業を複数取り扱っている。したがって媒体局に在籍する社員は競合複数社からのタイム・スペースの発注を同一部署が受注する。時には競合広告主へ出向くこともあるが、守秘義務があるから、得意先情報を他に漏洩することはない。そして、営業局(連絡局)へ人事異動し、特定の家電メーカー、食品飲料メーカー、自動車メーカーなどの担当になれば、競合の同業他社に出入りすることはない。営業局間の人事異動があっても、同業種競合広告主の担当に異動することもなかった。

電通は歴史的にアメリカ風の1業種1社制を採らずに今日まで生きてきたが、その理由のひとつは、営業局が十数局に分かれていて独立的であり、営業局間の横の情報流通が閉ざされていることが大きい。もうひとつの理由は社員の発想力が豊かで優れていることである。図抜けて優れた天才がいるというのではなく、総合力として the better をアウトプットする能力者の集団になっていることだと思う。

阿部の担当した家電メーカーに対し、彼は誠心誠意をもって優れた提案をし続け、従前にも増して良好な関係を築き、取扱高も拡大・伸長していった。

彼は、吉田秀雄以降、連綿として受け継がれて来た、「この会社を社員として誇りを持てる会社に育てること」を人生の目標にして、生きて来たように思う。だから、自分も一流の広告マンになろうと心がけたし、部下たちもそうなることを願っていた。役員になってから、四媒体だけでなく、セールス・プロモーション(SP)関連3局を担務していたが、SP部門は歴史が浅いだけに、彼から見れば多分に歯痒いところがあったようである。四媒体のように定価販売による手数料収入がビジネスの中核とならないSPの従来の商売のやり方は、利益率の維持向上からは遠ざかっていくことになるし、質の低下にもつながる。

部下の結婚式でスピーチする阿部
部下の結婚式でスピーチする阿部

彼は、ここにメスを入れようと思った。そのためには、局員の一人一人が、意識改革をしなくてはならない。下請協力会社の協力も得なければならない。下請けを泣かすな。適正な儲けを与えなければ、そこは疲弊するぞ。ウィン・ウィンが大切だ。その上で、電通の利益率を上げるにはどうしたらいいのか。皆で知恵を出そうじゃないか。彼の最後の1年ぐらいは、ほとんどすべての精力をSP部門の教育に費やしていたように思われる。対象とする局員の人数は、150人前後であった。この人数の人間を大きな投網をかけるように、いちどきに捕捉して教育することは不可能である。そこで、まず幹部級の教育から始めていく。毎晩のように、局長、局次長、部長を4~5人集め、酒を飲みながら自分の考えていることを話す。ディスカスする。意識改革を図って行く。毎晩が社員教育に費やされた。

彼は電通が個人の力業で動いている訳ではないことをよく知っていた。スタンドプレーも必要とされていないことを知っていた。ONE FOR ALLによって、社は今まで伸びてきた。これからもそれは変わらない。大切なのはチームワーク・プレーなのだ。

彼が後輩社員に伝えたかったのは、そういうことだった。吉田秀雄が掲げた理想を、彼もまた目標とし、同じ船に乗った仲間たちを、共にその理想に向かって導こうと心掛けたのだと思う。言ってみれば、伝道師だったのだと思う。スタープレーヤーであることを望まず、電通という企業、ひいては広告業全体が、社会的な存在意義を認められるように、高みを目指して歩んで行こう。それが己の使命だと。

彼の事績を第三者に鮮明に説明することは難しい。前述したように、広告業の仕事は、クリエーティブ・ワークほか、わずかな記録ドキュメント以外に残っていかない上に、彼自身が己を飾ることを嫌ったからである。しかし、彼と共に同じチームに属した経験のある人は知っている。彼が理想に燃え、チームメイトを気遣い、暖かい心を持つ、極めて求心力の強い人であったということを。

彼はどちらかと言えば、田夫野人的な顔つきをしていたが、底の方にあるのは温かさであった。初対面の時、相手は顔つきにだまされて、若干の警戒心を持つ人もあったが、しばらく話していくと、すっかり打ち解けてしまい、心を許していたという具合に変化するようだった。よく「ジジ殺し」という評語があるが、阿部はそれであった。

対話している時に、一瞬話題が途切れて沈黙の時が支配することは、誰もが経験するが、阿部にはそれが無かった。あっても、そのマがほんの一瞬でしかなかった。すぐに次の話柄に移って行き、相手を飽きさせなかった。人事考課についても、公平な立場を崩そうとはしなかった。

ある時、新しい営業局が誕生することになり、彼は初めて局長として就任することになった。まだ、局長以下、一切の人事は公表されていなかったが、あまり芳しからぬ噂が流されていた。いわく、各営業局の札付きの営業部を寄せ集めて、吹き溜め営業局を作るらしい、と。その噂を、ある営業部長が当時新聞局次長であった阿部のところに伝えに来た。

ところが阿部は、既に自分がその当該局長になることを知っていた上に、その噂を伝えに来た営業部長がその営業局に移ってくることも知っていた。本人にそのことを教えてやるわけにもいかず閉口したよと、筆者に述懐したことがあった。

そして、その吹き溜めと言われた阿部局はどうなったのであろうか。実に見事に業績を挙げていったのである。このことについて、阿部は次のように言っている。

「A、B、Cの評価で、Cだけを7つ、8つ集めて集団を作り競わせると、ちゃんとA、B、Cが新しく形成されるものだ。人事はこういう点で面白い。絶対値は無論重要だが、人は環境や上司との相性、得意先との人間関係、プロダクト・チームの良し悪しなど、いろんな要素がからんで、力量を発揮してくる。人事考課はこれらのことを慎重に配慮して行わねばならない」。

 

局長就任時のインタビューで
営業局長就任時のインタビューで

(文中敬称略)

◎次回は2月7日に掲載します。

プロフィール

  • Uenosan pr
    上野 義矩

    1938年満州新京生まれ。京都大学文学部社会学科卒。63年電通入社。新聞雑誌局中央部を経て、総合計画室計画二部長。その後、能力開発センター室長。

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