電通を創った男たち #75

社業に身をささげた男

阿部忠夫(5)

  • Uenosan pr
    上野 義矩

優れた遺伝子の伝道者

 

彼はまた、公私の別をはっきりさせる人であった。たとえば、私用の時に社有車を使うことはなかった。夜、銀座や赤坂で部下たちと飲むことがよくあったが、すべて、自分の懐からの払いであった。そのため、いつもお金がなかった。おそらく夏・冬のボーナスでも払いきれずに、払いを後ろへ後ろへと伸ばしていったのだろうと思う。よく銀座のママたちが、文句も言わずに黙認してくれたものだと思う。いずれは出世払いしてもらえると見込んでいたのかもしれない。

部下の叱り方も、意外なほどソフトであった。体育会系の、いかにも強圧的な雰囲気をまとっていたが、実際には、大きな声を出し、怒鳴ったりすることはなかった。叱る時も、目についたひとつのことを一言で叱っていた。相手をデスクに呼び、「お前のこれこれ(言動やミスなど)はよくないから改めろ、二度とするな、異論反論があれば言え。分かったならそれでよろしい」。つまり、サラッとしている。いつまでも過去のことまで持ち出して、ネチネチ言う人ではなかった。ただし、その後の言動をよく観察していて、改まらない場合の評価は厳しかった。

電通のような企業風土の中では、あるひとつの基準や型にはめ込んで、ステレオタイプの社員を生み出すことはよくないと考えていたのだろう。社員の個性を殺すような育て方はしなかった。とはいえ、粗暴で言動無礼な人、仕事より女性の方が好きで仕事に身が入らぬ人、出退勤がままならぬ人などに対しては、厳しかった。役員になってからも、その姿勢は全く変わらず、特に地位や立場を利用した公私混同については、心から忌み嫌っていた。ある年の電通年賀会で、会場へ納入する花屋が、従来の花店から変わったことがあった。それは、ある役員が、年賀会担当役員の阿部に無断で、自分の得意先である花店に変更したのだった。阿部は、こういう類の公私混同を最も嫌った。

亡くなる前年に配布された創立90周年記念の社員アルバムより
亡くなる前年に配布された創立90周年記念の社員アルバムより

彼は部下に注意を与える時に、なぜ一度しか言わなかったのだろうか。それは、基本的には、社員の自律性に信頼をおきたかったからではないかと思う。自分らの若い時と違い、今時の社員はものすごく高い競争率を突破して入社した人たちだ。素材としては、皆、優秀なはずだ。だから、くどくど何度も繰り返さなくとも、彼らなら理解してくれるだろう。大体、自分は叱るという行為が苦手だし。それが伝わらない場合がある。その時は、自分のすぐ下の世代が、さらに下の世代に伝えて行くだろう。それが電通のDNAだ。

電通のアウトプットとは、各部門の衆知の集合体のことであるが、世の中の人々が目にすることができるのは、CMなどクリエーティブ作品やイベント会場や出版物などの、具体物に限定されている。世間一般は、そのアウトプットされた制作物に誰が携わったかなどは、一切知らない。だが、電通の社内的には、各部門の一人一人が、何らかの形でその集合体(神輿)を下から支えていることを、知っている。ひとりだけの力ではない。皆の力で担ぎ上げている。その神輿が、他に比べて立派であり、出来栄えが良いならば、それは担いでいる一人一人の、小さいながらの貢献である。そのことに誇りを持っていい。時として、売れているメディアを担当する部署の社員の中には、勘違いして、今月は自分ひとりで何十億円のメディアバイイングをしたと誇らしげに言う人がいる。しかし、それは単なる勘違いであり、自慢のタネにはならない。何十億かのお金を持ってきたのは、多数の営業局の人であって、その媒体局員は、メディアとの良好な人間関係を築き、維持する能力も含めて、さばき(処理)能力にすぐれているにすぎない。稼ぎの少ない部署や人も、共に神輿を担ぎあげていることを忘れてはいけない。各人、各部署が、与えられた職務を完璧にこなそうではないか。そのことが一人一人の誇りになっていくだろう。電通の役割は、製造~流通~消費者と流れていく各フェーズにおいて、優れた広告戦略によって、商品やサービスの優良性を生活者にアピールし、購買に至らせること。そのことによって、消費者が充足感を得られるようにすることである。

電通社員の所属する部署や役割に上下はない。阿部はそう思っていた。阿部の特徴のひとつに、人の話をよく聴く、というのがある。飲めばかなり饒舌になったが、それでも一方的に喋りまくるというのではなかった。特に、相手が社外の人の場合は、むしろ、聴き手に回る方が多かった。相手からの問いかけには、曖昧さを残さず、はっきり答えるのが常だった。そのため、相手からは大きな信頼を得ることができ、ややこしい相談を持ち込まれることが多かった。そして、彼が仲立ちになると、こじれ切った問題が、なんとか治まることになるのだった。これでまた、新しい人脈が築かれていく。恐らく阿部ほど、社外に多くの知人を持った人は、あまりいないだろう。

20年ぐらい前から、電通では「人間力」という単語がしきりに使われるようになった。「人間力」というのは、人に秀でた、尖った才能ではなくて、総合力として、他者に対し強い影響を与える力の持ち主のことを指していると思うが、阿部は、その意味での人間力に勝れていた人だった。彼と生前に接点を持たなかった社員は、阿部のことをあまり高く評価しない。というよりも、評価するだけの材料を受け取っていなかったのだと思う。すでに述べたように、彼は、自分の業績を誇示しなかっただけでなく、電通にスターは必要ない、また、自分にはその素質もない、と考えていた。そういう意味では、彼の努力にもかかわらず、秋田人の内気、シャイという性格は、最後まで直らなかった。

昭和天皇の容態が悪化した時、皇居前にはご快癒祈念のための記帳簿が用意されていた。彼は、それに3度、記帳している。「オレはロイヤル・ユニバーシティ出身だからな」、と言っていた。「オマエも行ったらどうだ」と、言外に込められていたのだろう。

彼は3食とも外食であった。もっとも多分朝食は摂らなかったと思うから、2食であるが。昼は部下と共に、定食とか焼肉とかが多かった。夜はBARでアルコールの合間に、店屋物を取り寄せていた。帰宅はいつも深夜になった。からだに良いわけがなかった。

1992年9月10日、彼はすでに記したように、作家の渡辺淳一氏、産経グループの小林吉彦氏、電通築地第4営業局次長の水口拓氏とゴルフをプレーしたが、夕刻、社に戻る途中、心臓発作を起し、急死した。享年56歳。彼が新入社員として配属された時、直属の上司、兄貴分というか、指導者として後の社長、成田豊主事がいた。阿部は成田からかなりシゴかれたという。そのシゴきに耐え、応え、成長し広告人になっていった。成田社長も今は亡き人となっているが、おそらく、彼が心底から信頼していたのは、阿部忠夫だったのだろうと思う。

成田と阿部は電通ラグビー部でも一緒だった
成田と阿部は電通ラグビー部でも一緒だった

1992年9月14日、阿部忠夫の葬儀は天現寺通りの光林寺で執り行われたが、葬儀告別式への参列者は2300人を超えた。その時の葬儀委員長を成田豊専務が務めたが、その弔辞は愛弟子に対する哀悼の念あふれるものだった。少し長くなるが引用したい。

出棺を見送る参列者が道の両側にあふれた
出棺を見送る参列者が道の両側にあふれた

「今、私は君の弔辞を読んでいるが、順番が逆じゃないか。君の人生は素晴らしかった。多くの人に慕われ、愛された君はわれわれ電通人の誇りでもありました。広い人脈、強い責任感、鋭い洞察眼で君は的確な行動をとられました。私が病院に駆け付けた時、すでに君は亡くなっていましたが、いつもの寝顔と変わりなく、思わず『バカな、何でお前が』と口にしつつ額に手をやりました。まだ温かく『オイ、起きろよ』と揺り動かしたい衝動に駆られました。過ぎ去ったあの日、あの時、この時と君の勇姿、テレた顔を想い出します。泣きごと一つ言わず、難事に敢然と立ち向かう、決して威張らず、驕らず、心やさしい人でした。不正、邪を憎み、毅然として生き続け、後進を愛し、育ててきた君は電通人の鑑でもあります。仕事を愛し、家庭も愛しました。壮絶に人生を送り続けた君に、私は心からの敬意と感謝を表します。君が電通を愛した志を語り伝え、われわれはさらに立派な仕事を続けてまいります。永いことご苦労さまでした。ありがとう。安らかにお休みください。そして早く奥様のところへ行かれ、お二人でお嬢様たちを見守ってあげてください。 合掌」

己の生活をかえり見ず、ほとんど社業のために身を捧げた末の、悔やんでも悔やみきれない早逝であった。彼がもう少し永く生きていたら、間違いなく、さらに強力なリーダーシップを発揮し、社業をさらに発展させたに違いない。電通にとって、彼の早逝は、誠に残念であったと思う。

(完)

プロフィール

  • Uenosan pr
    上野 義矩

    1938年満州新京生まれ。京都大学文学部社会学科卒。63年電通入社。新聞雑誌局中央部を経て、総合計画室計画二部長。その後、能力開発センター室長。

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