電通を創った男たち #77

松本豊三と電通の満州・大陸帰り、

復員軍人たち(2)

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    北野 邦彦

吉田秀雄、銀座で敗戦を迎える

 

1945年8月15日正午、電通本社のある西銀座7丁目、現在の外堀通りに面した電通銀座ビルの2階広間では、上田碩三社長、吉田秀雄常務他、数十名の電通社員が、ラジオから流される「戦争終結の大詔」に聞き入っていた。誰もが生まれて初めて、緊張しながら聞く現人神の肉声が何とこの時、日本の敗北を告げたのであった。この状況を、『電通90年史』は次のように述べている。

日本はついに敗北した、ある者は茫然自失し、ある者は名状し難い感慨が胸をつきあげ、こぼれ落ちる涙をとめかねたに違いなかった。その時「これからだ」と大きな声で叫んだ男がいた。「いよいよ仕事が始まるぞ」といったとも伝えられている。常務取締役吉田秀雄であった。 戦争は終わった。平和こそが広告活動にとっての基本条件である。その平和の時が来たのだ。まさに「これから」であった。

この時、吉田秀雄は41歳。長く続いた戦禍を脱し平和の時代の到来を受けて、吉田は1963年に59歳で没するまでの18年間、戦後の電通と日本の広告界のために、持てる能力を存分に発揮する。第2次大戦中、吉田秀雄は徴兵されず電通勤務を続けることができた。常務取締役であった吉田は、戦争が激しさを増す中で、単に電通一社のためだけでなく、日本の広告界を変革するための知恵を振り絞り続けた。広告代理業の統合整理と不整広告料金の期正が、第2次大戦中に獲得した吉田の最大の成果であった。『電通90年史』で吉田の述べるところによれば、この間の状況は以下の通りである。

 

代理業の整備のほうは全国186社の経営経理調査を行い、それに基ついて12社にすることを目指したもので、1943年の初めから開始され、44年4月に至って完了した。この間、関係方面の抵抗、迫害は言語に絶するものがあった。広告料規正の問題はさらに困難であった。
すなはち、広告主の威力は失われていた時であり、新聞社は利害相反する関係から態度の一致が難しい。ことに当時まだ存在を軽視されていた代理業の一重役たる自分が表面に立ってやれる仕事ではない。そこで日本新聞会を通じ、商工省の名において全国新聞の経理調査をやってもらい、それに基ついて作り上げたものが現在の広告料の基礎をなすところの準マル公広告料算定方式であり、これによってわが国の広告界に初めて定価取引、正札取引が実現したわけである

しかし、戦争が日本経済に与えた打撃は余りにも大きかった。第2次大戦中の戦時統制経済による広告活動の大幅な制限で、企業や官公庁からの広告出稿も著しく減少し、厳しい用紙統制で新聞や雑誌の広告スペースの確保もままならない状況であった。 1943年9月には、記事中広告を除き、広告スペースを全紙面の15%以内とする自主規制が決められ、この状況は戦後も続き、新聞は、1948年8月に週1回4ページが可能となるまでは、裏表2ページの時代が続き、新聞広告の活動の場は大幅に縮小された。

入社1年目の吉田秀雄(後列右)
入社1年目の吉田秀雄(後列右)

しかも、戦後の日本経済には目を覆うばかりのインフレが襲いかかり、広告料金とくに新聞広告料金が相次いで値上げされたため、電通はたちまちにして資金難に陥った。さらに1947年に大蔵省が告示した金融機関資金運用準則によれば、広告代理業は不急事業とみなされ、金融機関からの貸出順位は3ランクの最下位「丙」ランクとされた。これは、吉田の関係方面への必死の働きかけで、1949年3月にようやく「乙」ランクに上げられ、電通の経営もどうにか維持することができ、吉田も一息つくことができたという。 , 敗戦時の1945年、電通の社員数は352名に過ぎなかった。それが、4年後、松本豊三の入社した1949年には約3倍の1085名に急増。10年後の1950年には、なんと6倍を遥かに超える2282名の社員数となっている。その中で、満州帰り、大陸帰り、復員軍人の多くは、それぞれに極めて重要なポジションを占め、戦後の電通の体質転換に大きく寄与した。それは、田原総一朗が「電通」の連載の中で述べた、「使い物にならないような連中」では、決してなかったのである。

まずは、満州帰りの人たちが数多く集まったため、「第二満鉄ビル」とも呼ばれた電通銀座ビル周辺の、敗戦直後の状況を眺めておこう。 21世紀の今日、誰もが憧れる世界的なトップブランドが軒を連ね、世界中のどんな美食家の舌も存分に満足させることのできる街・銀座。世界に向けて、日本の経済的発展を代表する街・銀座。

その銀座も、70年ほど前はB29によるたび重なる焼夷弾の爆撃を受け、街のほとんどが灰塵に帰し、その姿は今日の銀座からは決して想像することができない、焼けただれた貧相な廃墟の連続であった。 当時の銀座には木造建築が多く、B29の投下する焼夷弾の雨にはひとたまりもなく焼け崩れてしまった。三越や松坂屋をはじめいくつかのビルは、外観はどうにか残ったものの、その内部は焼き尽くされ、外壁や窓枠も黒煙でどす黒く染まっていた。当時は電通ビルのある西銀座界隈から、東銀座の歌舞伎座あたりまでが眺められたというのである。

焼け野原となった銀座4丁目付近
焼け野原となった銀座4丁目付近

銀座地区でかろうじて焼け残ったビルは、4丁目交差点にある服部時計店ビル、3丁目の松屋銀座本店ビル、4丁目の教文館ビル、7丁目の大日本麦酒本社ビル(現ビアホール・ライオン銀座7丁目店)、同じく7丁目の電通銀座ビルなど、ほんの数えるほどしかなかった。これらの焼け残ったビルは、1945年から46年にかけ、電通銀座ビルと教文館ビルを除き全て占領軍に接収されてしまう。1933年に完成した電通銀座ビルは、関東大震災の経験を踏まえ、耐震・耐火に格段の注意を払ったビルであった。そのおかげで、ぶ厚い鉄骨コンクリートとタイル張りの外壁や、鉄製の防火シャッターはB29の焼夷弾にもよく耐え、戦後もオフィスビルとして使うことができた。銀座で焼け残った数少ないビルのひとつとして占領軍の接収対象となるが、電通と戦前からの提携関係にあったUP通信社の副社長・極東総支配人マイルス・ボーンの尽力で接収を免れる。

終戦後、迷彩を洗い落とした電通銀座ビル
終戦後、迷彩を洗い落とした電通銀座ビル

電通が戦後の極めて困難な時期を乗り越えることができたのも、電通銀座ビルが無事に残り、占領軍に接収されなかったことも大きく影響している。接収され、どこかの貸しビルに入居すれば、厳しい経営状況の中で、さらに高額の家賃の支払いに苦慮しなければならなかったのだから。

(文中敬称略)

◎次回は4月18日に掲載します。

プロフィール

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    北野 邦彦

    1937年生まれ。早大第1商学部卒。63年電通入社。秘書室長、広報室長などを歴任。01年より帝京大文学部社会学科教授を務めた。著書に『日本の広報・PR100年』(共著/同文館)、『実践マーケティング・コミュニケーションズ』(共著/電通)など。

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