電通を創った男たち #78

松本豊三と電通の満州・大陸帰り、

復員軍人たち(3)

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    北野 邦彦

吉田秀雄、人材こそ広告会社の全てと確信

 

日露戦争の始まる前年の1903年に福岡県小倉市に生まれた吉田秀雄は、旧制小倉中学校、鹿児島の旧制第7高等学校を経て、1928年、東京帝国大学経済学部商業学科を卒業する。吉田が卒業した前年の1927年は、全世界に金融恐慌による不況の嵐が吹き荒れた年であり、その1年後も就職戦線は極めて厳しい状況にあった。
1927年、電通は初めて大卒の公募を行うが、その結果、広告営業部門に4名、通信部門の記者として7名が採用される。広告営業部門である東京本社営業局地方部に配属された吉田は、入社して初めて、広告営業のあまりにも旧態然たる実態を知り、愕然とする。
電通入社当時の状況を、『電通社報』59号(1953年6月20日)の座談会記事「電通 生活25年・回顧放談」の中で、吉田は次のように語っている。

最初体格検査の通知を受けた時に、これはえらい会社だと思ったが、4月2日に、入社日に出て見て、更にこれは飛んでもない会社だと、愈々中に入って見て、それこそ本当にこれは飛んでもない会社だということになった、というのは、当時は広告取引というものが、本当のビジネスになっていない、実業じゃないのだ、ゆすり、たかり、はったり、泣き落としだ、僅かにそれを会社という企業形態でやっているというだけで、まともな人間や地道なものにはやれなかった仕事なんで、営業にいるメンバーというものは、殆ど全部が、他の色々な仕事から転業して来た、悪く言えばどこに行ってもおちつかぬ連中が、この広告という商売の場にやっと見付けたという程度のもので、甚だ非ビジネス的な仕事だった訳だ。

1932年の電通オフィス。この日は賞与日で光永社長が社員全員に手渡した
1932年の電通オフィス。この日は賞与日で光永社長が社員全員に手渡した

吉田は何とかして電通を欧米並みの近代的な広告業に変身させることができないかと考え、 欧米の広告界の実情や広告理論を猛烈に勉強する。入社3年目の1930年には、同期入社の日比野恒次(第5代社長)、坂本英男(後に副社長)らと語り合って、丸善からアメリカの広告専門誌『プリンターズ・インク』を取り寄せ、輪読研究会を行っている。 若き日の吉田は、近代的広告業としてあるべき電通の姿、日本広告業界の新しい姿をひた すら求め続けたのであった。 当時の勉強会について、吉田は前述の座談会の中で、次のようにも語っている。

僕が主唱して、こんな事じゃ大変だ、こういう広告界では大変だ。お互いに一つ勉強しようじゃないか。広告並びに広告取引というものに付て、先輩から学理・学説を聞くとか、或いは道筋立った話を聞くという事が出来ない。
そういうものはないのだからどうにもならない。只あるものは、広告をとるという体験だけだ。到底抽象的な学問ばかり叩き込まれて来た我々にとって満足できるような先輩はいない。そこでお互いに研究しようじゃないかというので僕ら同期に入ったものと、僕らより後に入ったものが、グループを作って、輪読会を開いた。

1932年ころ、友人の集まりで。後列中央が吉田、左が日比野、前列右端が坂本
1932年ころ、友人の集まりで。
後列中央が吉田、左が日比野、前列右端が坂本

吉田は1933年、日本新聞協会大会が朝鮮の京城(現ソウル)で開催された折、光永星郎社長に随行し、朝鮮の『東亜日報』や『朝鮮日報』を訪問、さらには満州に足を延ばして、『満州新聞』などを訪れ、朝鮮、満州の新聞事情をつぶさに研究している。

また、1935年には中国の新聞事情研究のため上海に出張し、上海に「電通広告公司」を開設し、その結果、1940年ころには、中国の邦字紙、日系漢字紙の広告のほぼすべてが電通扱いとなった。
1937年の電通夏期広告講習会(後の夏期電通広告大学)で、吉田は「新聞広告と広告代理業」のテーマで、講義を行っている。講義内容は、わが国の広告代理業も、欧米の広告代理業を範として、媒体、調査、広告図案・文案作成、営業を一体化した近代的業態とするべきであると説く。この時、吉田は弱冠34歳。肩書は営業局地方部助役であった。これを機に、電通に吉田ありという評価が、広告業界に周知されることとなる

1935年上海埠頭に到着した吉田。長崎丸の甲板で
1935年上海埠頭に到着した吉田。
長崎丸の甲板で

敗戦からわずか半年後の1946年2月、電通の3代社長上田碩三は、戦後の電通の進むべき方向を、「当面の活動方針」のタイトルで、全社員に向け発表した。

①民間放送の実施促進、②パブリック・リレーションズの導入・普及、③調査部機能の拡充、④宣伝技術の向上、⑤事業部門の拡充、⑥印刷部門の再編の6項目である。
これら6項目は全て、その後、数年中に実施に移され、多大の成果をあげることになる。この「活動方針」は、社長である上田が発表したものであるが、実際にその立案に当たったのは吉田であった。

上田碩三社長は、記者として電通の通信部門に入り、常務取締役・通信部長となる。1936年、当時の2大通信社であった日本電報通信社(電通)と新聞聯合社(聯合)の通信部門が合体し、新たな通信社として同盟通信社(同盟)が発足する、いわゆる電聯合併に際し同盟通信に移籍し、常務理事・編集局長の職に就く。 しかし、姻戚関係にあった第2代社長の光永真三が1945年7月、電通社長を辞任したため、電通に戻り第3代社長に就任する。

上田は長年にわたり編集畑を歩いてきたため、広告に対する関心度、理解度が低く、常務取締役の吉田秀雄が、「活動方針」をはじめ、広告業としての電通の経営プランの立案実施に当たっていたのである。1947年、上田碩三は、戦時中の同盟通信幹部の経歴を問われ公職追放となり、電通社長を辞することとなる。第4代社長に就任したのは、43歳の吉田秀雄であった。吉田は社長に就任するとすぐに、広範囲にわたる人材発掘と、それら人材の電通社員への採用を果敢に行う。

吉田秀雄は、『電通社報』48号(1952年4月25日)に「回顧断層」と題した文章を寄せている。その中で、敗戦直後の電通に多くの逸材を集めた目的を、次のように述べている。

戦前の日本広告界の低調は人材の貧困にあった。有能の材はこぞって官界・三井・三菱等の大財閥企業、金融界・満鉄等の国策会社に吸収され特異の材が新聞界・言論界・文化界に才能を磨いたのだが、広告という、日本に於いては何故かは知らぬが、卑小狭隘な社会には、残飯残肴の類しか寄りつかなかった。それが因となり果となって、益々広告界を矮小低調なものとしたのだが、それ等の優秀事業の解散が有能人材の放出となり、電通に人材雲の如く集まる結果となった。
私は敢えて広告する――今日の電通位人材の集まった企業は他に類例がなかろう。しかもそれ等の戦後入社の人材が天凛の英質と多年高い広い舞台で身につけた経験を基礎にして広告を理解し、これを終生の職業として身につけて社内重要ポストの九割までを占めたのだから、今日の電通はもはや過去のものとは全く異質の存在となったのだ。

滿洲などの外地から引き揚げてきた優れた人材や、しかるべき地位にあった復員軍人を積極的に採用し、重要なポストに就けることで、彼らの持つ、旧弊にとらわれないものの見方、考え方を通して、古くからの社員に広告業に対しての新しい視点を植え付け、電通の企業体質の改善、ひいては日本の広告界全体の変革をするというのが、吉田が考えた人事の基本方針であった。

(文中敬称略)

◎次回は4月19日に掲載します。

プロフィール

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    北野 邦彦

    1937年生まれ。早大第1商学部卒。63年電通入社。秘書室長、広報室長などを歴任。01年より帝京大文学部社会学科教授を務めた。著書に『日本の広報・PR100年』(共著/同文館)、『実践マーケティング・コミュニケーションズ』(共著/電通)など。

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