電通を創った男たち #79

松本豊三と電通の満州・大陸帰り、

復員軍人たち(4)

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    北野 邦彦

満州マスコミ界の大立者 松本豊三

 

数多くの満州帰りの有為の人材の中でも、松本豊三の存在は傑出したものであった。『満州日報』の廃刊で職を失い、日本に戻っても公職追放にあい、日々の生活に困窮していたとはいえ、よくぞこれだけの人物が吉田の誘いにより電通に入社したものである。今では電通関係者の脳裏から遠く離れてしまっている松本豊三の姿を、先ずはその履歴から辿ってみよう。

松本豊三は1898年、兵庫県の生まれ。京都の旧制第3高校から東京帝国大学経済学部に進み、1922年に卒業し、南満州鉄道(満鉄)に入社する。
満鉄は当時の入社試験の最難関企業のひとつであった。そもそも満鉄は日本政府が出資した特殊法人であり、鉄道事業のみならず、撫順炭鉱、鞍山製鉄所、ヤマトホテル、満州航空、農場、研究所、『満州日日新聞』などを傘下に収めた、満州における日本政府、後には関東軍の満州進出拠点であった。松本はエリート社員として社長室社会科に勤務するが3年ほどで辞職し、1925年3月、『大阪毎日新聞』に入社。編集局整理部勤務となるが、半年で退社する。
当時の日本には、1921年の原敬首相暗殺、日英同盟廃棄、1923年の関東大震災、1925年の治安維持法公布等、大正末期の暗い影が覆いかぶさっていた。

1922年、満鉄入社の記念に兄(左)と
1922年、満鉄入社の記念に兄(左)と

1930年、松本は『神戸新聞』と並んで、当時の神戸の有力紙であった『神戸又新日報』(こうべゆうしんにっぽう)に入社し編集局長となるが、1933年6月に退社し、同年8月、満鉄に再入社。本社総裁室弘報課長に就任する。
前年の1932年には、満州事変の契機となった柳条湖事件が起こり、国際連盟からリットン調査団が日本・満州に派遣される。同年、満州国建国宣言が出されるが、松本が満鉄に再入社する1933年には、国際連盟からの日本脱退という、日本と満州の運命を大きく変える事件が起きている。

1938年、満鉄大連本社総裁室弘報課長時代に家族と
1938年、満鉄大連本社総裁室弘報課長時代に家族と

満州国は、1934年に満州帝国と名称を改め、清朝の末裔・溥儀が皇帝に即位する。この「五族協和」、「王道楽土」を標榜する満州の地に、数多くの日本人が夢の実現のために渡った。
小作農としての報われない生活から逃れようとする農民、膨大な資源を獲得することで一旗揚げようともくろむ商工業者、王道楽土の実現を夢見る若者たち、高まる日本軍国主義の波から逃れ、自由な大地に新たな夢を求める大正デモクラシーの教育を受けた人々。その動機はさまざまであったが、約30万人にも及ぶ日本人が、海を渡り満州の土を踏んだのである。満州国が建国されたとはいえ、その国家としての基盤は極めて弱いもので、多くの欧米諸国からは国として承認されなかった。

それだけに、満州国は国の存在を全世界に知らせるための弘報活動を、国を挙げて全力で行った。満州国の中枢機関である国務院総務庁に弘報処が設けられたが、こうした組織は当時の日本政府にはなかった。また、マスコミを統括する組織として、満州弘報協会が設けられ、より一層徹底した弘報活動を推進するため、満州国通信社(国通)や日本語、中国語、英語などによる各新聞社を、その統制下に置いた。 日本政府の国策会社である南満州鉄道(満鉄)も、満州国成立以前から弘報の重要性を認識し、1923年、満鉄の中枢機構である総裁室に弘報係を設け、1933年には弘報課に昇格させている。

1939年、松本は満鉄の経営する新聞、『満州日日新聞』に出向し、社長に就任する。敗戦の前年である1944年5月、『満州日日新聞』は、新京(現・長春)の日本語新聞『満州新聞』と合併し、特殊法人『満州日報』となり、松本は同社の理事長に就任する。この時、松本は満州新聞協会理事長にも就任している。 満州のマスコミ界のトップとして6年を過ごした松本は、1945年8月の敗戦を満州で迎える。
この年、『満州日報』は解散し、松本も社長を解かれ、帰国の途に就く。

1910年7月29日付の満洲日日新聞
1910年7月29日付の満洲日日新聞

ところで、これまでの文中では「弘報」という単語が使われており、われわれが通常接している「広報」という単語は使われていない。満州では、「広報」ではなく、全て「弘報」が使われていたのである。実は戦前は、わが国でも「弘報」が使われていた。しかし、「弘報」は、1946年に内閣が告示した「当用漢字表」に含まれていなかったため、やむなく当て字として「広報」が使用され、今ではそれが「弘報」に代わり、普偏化しているのである。この「広報」は、戦後に新たに生み出された造語であるという説があるが、これは事実ではない。1870年に創刊された日本人によるわが国初の日本語日刊新聞、『横浜毎日新聞』には443号(1872年5月9日)以降に数回にわたり、「広告」を意味する「廣報」が現れている。

「弘報」を満州に広めた人物として、高柳保太郎の名が挙げられる。高柳保太郎は、退役陸軍中将で、満鉄顧問をしており、大連で発行された英字紙『マンチューリア・デーリー・ニュース』、同じく大連発行の中国語紙『泰東日報』、満鉄傘下の日本語紙『満州日日新聞』などの社長、満州国通信社理事長を歴任した、満州のマスコミ界の長老格でもあった。 高柳は1918年の日本陸軍のシベリア出兵に際し、浦塩派遣軍参謀長として、陸軍に初めて「弘報班」を設置し、情報・宣撫活動を行った、いわば、弘報の世界の先駆者でもある。
この高柳のアドバイスを受け、満鉄は早くから弘報活動に力を入れ、1923年、総裁室に弘報係を置き、1933年には弘報課に昇格させ、100名近い課員を抱え、満州国国務院総務庁弘報処、満州弘報協会や協会傘下のマスコミとの連絡の緊密化を図った。この満鉄の弘報課長が、まさに松本豊三だったのである。

松本が満州国弘報処編集の『宣撫月報』(1938年10月号)に寄せた「満鉄と弘報業務」によれば、満鉄に弘報係が設けられた時、職員が高柳に、「弘報とは何ですか」と問うたところ、高柳は「弘報とは、広告ひろめ屋じゃよ」と答えたという。「ひろめ屋」とは、明治時代の広告代理業の別称でもあり、当時「広目屋」という名称の広告代理業も実在していた。また、1884年、福沢諭吉の意を受けて、『時事新報』社員の江藤直純が設立した明治から大正にかけての有力広告代理業「弘報堂」の存在も、高柳の脳裏にはあったと推測される。

ちなみに、わが国で初めて「廣告」の単語が使われたのも、『横浜毎日新聞』紙上であった。江戸から明治にかけて、多くの新聞紙上では、記事欄と広告欄は区別されていなかった。そこで、広告であることを明示するため、広告文の始めには、「稟告」「告白」「廣白」などの見出し語が付けられた。 『横浜毎日新聞』418号(1872年4月11日)の紙面に、その見出し語のひつとして、「廣告」が初登場するが、この「廣告」はたちまちにして市民権を獲得し、他の見出し語を駆逐し、1880年代には、他紙にも使われるようになり、明治中期には一般名詞化する。1888年には湯澤精司等による広告代理業「廣告社」も出現する。 この和製漢字の「廣告」は中国にも輸出され、中国では1906年に清王朝が発表した「政治官報章程」の中で初めて使用されている。『横浜毎日新聞』に「廣告」の単語が登場して以降、30年以上たってからの中国での登場であった。

満鉄にとっても満州国にとっても、その存立を維持し安定させるためには、内外に向けた弘報体制の確立、強化が喫緊の課題であった。古巣の満鉄に戻った松本は、神戸又新日報編集局長として培った経歴からマスコミに対応するべき術は熟知しており、満鉄弘報課長としての腕を存分に振うこととなる。その後は前述の通り、満鉄系の日本語新聞『満州日日新聞』社長、『満州日日新聞』と『満州新聞』との合併で1944年に生まれた『満州日報』理事長等、満州マスコミ界のトップとして活躍する。

(文中敬称略)

◎次回は4月25日に掲載します。

プロフィール

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    北野 邦彦

    1937年生まれ。早大第1商学部卒。63年電通入社。秘書室長、広報室長などを歴任。01年より帝京大文学部社会学科教授を務めた。著書に『日本の広報・PR100年』(共著/同文館)、『実践マーケティング・コミュニケーションズ』(共著/電通)など。

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