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Dentsu Design TalkNo.48

ものづくりとものがたり(前編)

~分人主義から見る、文学・アート・広告~

2015/05/01

3月27日に行われた電通デザイントークに登場したのは、作家の平野啓一郎氏とデザインエンジニアの田川欣哉氏の2人。平野氏が近年唱えてきた「分人主義」は、人間は一つの人格(individual)だけを生きているのではなく、対人関係ごとに異なる人格(dividual)を持ち、その集合体として生きている、という考え方。一方、田川氏率いるデザインエンジニアリングファーム「takram」は、「デザイン」と「エンジニアリング」という2つの手法を一人の人間が切り替え、組み合わせながら開発する方法論を採っている。ジャンルは違えど、根底の視座に共通点を持つ2人。
その「ものがたり」と「ものづくり」をめぐる対話を、2回に分けて紹介する。

 

デザインとエンジニアリングに境界はない

 

田川:takramはデザインエンジニアリングの会社です。デザイナーとエンジニアがチームを組むのは珍しくありませんが、takramにいるのは、エンジニアリングの経験を積んでからデザインの世界に入ってきた人、つまり一人の中に2つのスキルが同居した人たちです。
彼らを「デザインエンジニア」と呼んでいます。個人としても、会社としても、プロダクトからユーザーインターフェース、サービスデザインからコンセプトに近いところまで、色々なところに介入しつつ、一つの領域にははまり込まない形を目指してやっています。

最近の仕事を紹介しましょう。
フランスで展示した「Taste of Light」は、もしも未来に人間が光を味覚として感じるためのデバイスが存在するとしたら、という想像からデザインしたものです。
六本木ミッドタウンの「活動のデザイン展」に出展した「Shenu」は、100年後の地球環境がテーマ。核汚染で飲料水が激減した未来の世界で、人が水を必要としない身体に疑似進化するという設定で、5つの臓器を考えて展示しました。このほかにも、Eテレの子ども向け科学番組「ミミクリーズ」のアートディレクションなどもしています。

平野:僕自身、人間が火星に行って戻ってくるまでの閉鎖空間の中で、どう水を確保するかをという問題を「ドーン」という小説の中で書いたことがあるのですが、膀胱を取り換えるところまでは思いつかなかったな(笑)。takramの中で、こういうアート的なものはどう位置づけられているんですか。デザインの仕事とは分けて考えているんでしょうか。

田川:一人の人間の中で、プロジェクトによってアーティスト的なマインドで臨んでいたり、デザイン的なマインドで臨んでいたり、場面場面で切り替えている感じです。

平野:takramでは、デザインとエンジニアリングの両方できないと、働くのは難しいんですか。

田川:デザインもエンジニアリングも、特に先端の領域に入れば入るほど境はあいまいです。そもそもきれいな分岐点があるわけじゃない。例えばデスクの脚の設計をするとき、エンジニアは強度の観点から見て、デザイナーは形の美しさやバランスを見る。両者の言語は違いますが、扱っているパラメーターは実は同じだったりします。エンジニアでもデザインの経験を積めば、勘のいい人なら3年くらいでデザイナー視点とエンジニア視点が併存するようになる。融合ということではなく、2つの視点の間で振り子を振るようなイメージです。

 

人工物と人間の接着面には何がある?

 

平野:デザインとエンジニアリングが分断されずに重なり合っているというのは面白い。プロダクトは、最終的に身体のどこかに帰着するものだと僕は思っています。触るものなら手(触覚)、見るものであれば目(視覚)という具合に。スマートフォンが進化して小さく軽くなっても、最終的に手という部位に帰着せざるをえなければ、必然的にあるサイズは保持しないといけない。

 

田川:身体性の話は、僕らの仕事とは切り離せません。 映画「2001年宇宙の旅」で、猿が骨を道具として使うことに覚醒するシーンがありますが、あれは生き物が初めて道具を手にした時の興奮であり、それは僕らがiPhoneを手にした時の興奮とほぼ同じ種類のもので、自らの身体性が拡張されることの強烈な快感なのだと思う。身体機能を拡張するものとして広く道具という概念を捉えれば、人と道具を一体のシステムとして見て、その調和が一番よい状態になるようにデザインを考えるようになります。
ただし、人工物と人間は接合しえないので、その境界線に「インターフェース」が生じる。さっき平野さんがおっしゃったように、デザインが五感と向き合わなければならないのは、その境界線に五感が居座っているからです。
「インタラクション」という言葉もありますが、少し昔の概念だと感じるようになってきました。というのも、インタラクションは「インター+アクション」。つまり、カウントの単位が「アクション」なんです。でも、iPhoneを指でヒュッとなぞる感じ、その途中の指への吸い付きなんかは、アクションよりも細かい単位で機械と人間が結びつく感覚があるでしょう。それがとても自然で新鮮だったから、iPhoneは受け入れられたのだと思うんです。アクションというより、もう「つり合い」や「平衡」の感覚に近くて、よいつり合いが保たれた状態をつくれるかどうかが、デザインをする時の一つの視点になっています。

平野:以前、あるSF的な思考実験をしたことがあります。もしも地球から人類がいなくなったら、どこかの星からやってきた宇宙人は、残された人工物から人間の身体を想像できるだろうか?と。人工物は身体に基づいて構成されています。都市は、人間の身体の裏返しです。階段や手すりといったこれまでのプロダクトは、身体の部分と一対一で対応しています。
しかし、自然はどれほど眺めていても、決して人間の身体を思い描かせない。iPhoneの電源が入るか、電波があるかどうかで、人間の形についての情報量が 途轍もなく変わってきますね。僕は人間の身体にも、デザインエンジニアリングの仕組みがあると思います。
なぜなら、人間は分泌物によって五感がコントロールされる内分泌系の生き物だからです。こうすると、ドーパミンが出て幸せを感じるとか、アドレナリンが出て興奮するという仕組みになっている。
報酬系ですよね、基本的に。きっとそのうち、手や足などの物理的なインターフェースなしに、人工物の機能と身体の内分泌系が直接刺激しあうシステムみたいなものが考えられていくんだと思います。

「観察」は客観的なのか?ユーザー調査の落とし穴

 

平野:ものをデザインする時、田川さんは具体的に使う人を思い描いて考えますか? その時一番のキーになるのは何ですか?

田川:ユーザーをどう理解するかは、実は一番明確に答えが出ないところなんです。ペルソナを立てようとよく言いますが、ペルソナを立てた方が手が動くデザイナーもいれば、立てた瞬間作れなくなるデザイナーもいます。

いま主流のデザイン思考は、「観察」を基本に置く手法です。観察というのは、デザインする上での正義や正しさを、デザイナーの主観ではなく、環境の側に預けるということです。でもそれをあまり得意としないデザイナーの場合、正義を個人の側に奪回してもらった方が、実は人に喜ばれるものを生み出しやすかったります。

平野:その人の主観が、社会的な何かと合致しているというケースですね。天才型とも言えそうです。

田川:そうですね。人間とは不思議なもので、エスノグラフィーの調査などで、デザイナーが見ていると意識した瞬間に、人って「ペルソナ」や「ユーザー」であろうとするんです。存在しない自己一貫性みたいなものを演じはじめる(笑)。本当に高度なエスノグラフィーを実践するなら、観察されているという意識を極限までなくさないといけない。けれど人間というのは複雑で、誰もがある種分裂的な状況を抱えていますから、高度な観察ができたとして、その複雑な状況全体に訴えかけるものなんて作れない。結局、そこから切り口をチョイスする部分には主観的な洞察が介在します。観察を使ったデザイン手法は、表面的にはそこに正義があるかのように見えてしまうので、手法として使う側も丁寧に扱う姿勢が必要です。

時代としては、個人の側にある正義が再評価されるフェーズに入っていると思います。個人発の主観であっても、インターネット上にある関心のネットワークにうまくアクセスできれば、その正義に共鳴共感する人たちからの支持や経済的な支援が得られるようになりました。クラウドファンディングなどがまさにそうです。だから、作る側が自分なりの正義を持って、そういう状況をうまく使いながらものを作ることができるようになってきた。そのような中で、客観と主観、観察と洞察のバランス感覚がデザイナーに求められるようになってきていると思います。

 

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※後編は5/2(土)公開
企画プロデュース:電通イベント&スペース・デザイン局 金原亜紀