電通を創った男たち #80

松本豊三と電通の満州・大陸帰り、

復員軍人たち(5)

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    北野 邦彦

松本豊三 電通に入社

 

1947年3月、松本は日本に引き揚げる。鎌倉に居を構えたものの、当時のほとんど全ての日本人同様、生活苦にあえぎ、その上、満州のマスコミ界のトップであったことから、公職追放令該当者として、新たに公職を求めることができなくなる。

戦後の電通を人材の面で大変革させようと考えていた吉田秀雄が、この満州マスコミ界のトップの公職追放解除を見逃すはずがなかった。吉田は、1946年2月に発表した「電通の活動方針」の第2番目に「PRの導入と普及」を掲げたが、この分野での電通社内における人材の不足は余りにも明白であった。満州でのマスコミ界、弘報界のトップの人材とあれば、まさに適材である。電通に招かないわけにはいかない。

1949年11月、公職追放の解けた松本は、吉田に乞われて電通に入社する。身分は役員に次ぐ、秘書役である。『満州日報』編集局長であった森崎實、『大陸新報』編集局長、専務理事であった森山喬と共に、新設された企画室所属となる。

秘書役となった松本は、1950年、吉田の配慮によって新設された「独立4部」と称する部署を担務することとなる。この独立4部とは、東京本社の宣伝技術部(部長:新井静一郎)、調査部(部長:奥村驍)、出版部(部長:松本豊三兼務)、PR部(部長:小谷重一)の4部を指し、総勢98名。現業部門である営業局、事業局のいずれにも所属することなく、松本が自由に差配できる独立部署であった。中でも出版部は松本が部長を兼務するが、元来、『満州日日新聞』は出版部門を持っており、松本自身もその責任者であったため、出版はいわば松本のお手の物の領域であったといえる。

しかし、松本は2年足らずで独立4部を統括する立場を離れ、1951年に新設された大阪支社ラジオ支配人として赴任する。この年に始まった民間ラジオ局の開局への対応こそは、吉田が「活動方針」のトップに据えた最重要課題であり、ラジオ部門は電通社内でも最も重要視された部門のひとつでもあった。

同じ1951年に新設された東京本社のラジオ局長には杉山栄一郎が就任したが、ほどなくして杉山は大阪支社ラジオ支配人に転任することになる。ところが杉山が家庭の事情を理由に大阪行きを固辞したため、吉田は悩む。吉田が困っているのを見かねた松本が自ら手を挙げ、大阪に赴任することを決意したのである。1952年、大阪支社にもラジオ局が設置され、松本ラジオ支配人は、ラジオ局長となる。

兵庫県出身で京都の旧制第3高校を卒業し、神戸又新日報編集局長であった松本にしてみれば、土地勘のある大阪に赴任することは、それほど大きな問題ではなかったのかもしれないが、それ以上に、電通に呼んでくれた吉田秀雄が人事問題で困っているのを、見捨てておけなかったのであろう。

昭和29年、大阪支社ラジオテレビ局長時代。広告電通大学で講演
昭和29年、大阪支社ラジオテレビ局長時代。広告電通大学で講演

1952年、電通は新たに副社長制を導入し、松本豊三と、『満州日報』業務局長から電通東京本社営業局長になった高橋渡、満鉄錦州鉄道局長から電通東京本社経理局長になった古賀叶ほか5名を副社長に任命している。この副社長制は1957年まで続けられた。

翌1953年2月、東京本社と大阪支社のラジオ局は、8月の日本テレビ開局以降、続々開局する民間テレビ放送局に対応するため、ラジオテレビ局に改組され、大阪支社ラジオテレビ局長には松本が就任する。ラジオ営業部と企画制作部からなり、46名の局員を擁する重要部門であった。

民間テレビ局の開局が一段落した1954年に、松本はラジオテレビ局長を同局次長の芝田研三に譲り、松本自身は大阪支社企画調査局長に就任する。宣伝技術部、調査部、PR部から成る55名の世帯である。 4年後の1958年まで企画調査局長を続けるが、この年に局長を永井一男に譲り、現業を離れ、大阪駐在の副社長・調査役となる。1960年には嘱託となるが、調査役の肩書はそのままである。 1965年、大阪支社調査役・嘱託のまま東京本社PR局社史編纂室長も兼務し、室長を1968年まで続けるが、その後体調を崩して療養生活に入り、この年、脳血栓に肺炎を併発して逝去する。70歳であった。 松本の電通での社歴のほとんどは大阪支社であったが、ラジオテレビ局長、企画調査局長として、大阪電通の社員、大阪のメディア関係者、広告主などに及ぼした影響力には大きなものがあった。

松本は、昔の新聞人に往々にしてみられるような、口角泡を飛ばして激論し、声を張り上げて自説を主張するといった性格ではなかった。相手の言葉にじっくりと耳傾け、静かに話し込むタイプで、イギリス紳士のモットーである「スピーク・ロウ」はそのまま、松本にも当てはまるものであった。

京都府乙調郡西向日町の広壮な自宅に大きなビニールプールを置き、社員や知人を呼び寄せては、素っ裸でプールに入り、その後、裸のまま酒杯を交わすという、文字通りの「裸の付き合い」を得手としていた。実に裏表のない人柄で、酒の飲み方や人生の在り方を諄々と説く、その態度に多くの人が魅了された。

松本の3回忌となる1970年、松本の人柄を慕った人々によって、『追憶・松本豊三さん』が出版された。その中から、いくつかの文章を紹介したい。

こんどこられる松本さんという方は、とにかく大ものなんだって…、というまえ噂で入社された松本さんが、私にとっては永い間の上司となり、第2の父親的存在になった…。いつも包擁力をもってわれわれのいうことに耳をかし、よき指示を与え、また相談にのってくださった(朝倉利景・電通東京本社調査部長から大阪支社調査局長)

水を満たすのに三昼夜要したという自宅のプールで
水を満たすのに三昼夜要したという自宅のプールで
京都の自宅でスケッチを楽しむ松本
京都の自宅でスケッチを楽しむ松本

この方に迷惑をかけてはならないと、私たちに強く思わせる何かが、松本さんにはありました、…松本さんは手紙や文章のうまい方でした。月並みでない表現が、驚くほど新鮮にキラッと光っておりました。(新井静一郎・電通東京本社独立4部の宣伝技術部長、後のクリエーティブ担当常務取締役)

十分に部下の意見を聞かれた上で、YES、NOの断を、特にNOについては実にはっきりした断を下す人だったことが印象に残る。当時の(大阪支社)ラジオ局全員が親父のような松本さんに限りない信頼と愛情を感じて、無我夢中に動きまわっていたのが思い出される。(千知岩春雄・大阪支社から電通常務取締役)

電通で一緒になってからは、先輩だからいつもご意見を聞くと、言葉は少ないが皮肉を交えながら、端的にきわめて適切な意見をのべられた。吉田社長は深海魚などと、あだ名をつけていたが、内心は尊敬していた。まあちょっと言葉に現わされない、静かな特殊な立派な人だったことは、誰も異存はないでしょう。(森山喬・大陸新報専務理事から電通副社長・秘書役)

引揚げ後、松本さんは満日関係者の再起に懸命の努力を続けられたことは他に例を見ないことで、24年夏、私が電通に再入社し得たのも、そのおかげであった。(米野豊実・満州日日新聞取締役から東京本社企画調査局部長待遇)

最後に松本豊三自身の遺稿の一部を記しておこう。

新聞人といへば、外からは相当な猛者揃ひに見えるらしいが、それは使命を遂行する場合の無遠慮さであり激しさであることが多い。一歩内に入ってみれば、おかしい位いお人好しで、真ツ正直で、向ツ腹を立てやすく、人見知りをする、はにかみ屋で、創作家で、他人のことはよく気がつくが自分のことはわからないわからうとしない、そして多分に見栄坊なところがあるのである。これらの特徴はまさしく善人だ。殊に満州の新聞人は箱入り息子ばかりだったといってもよい。松本豊三の持つ幅広い見識と深みのある人格とが、戦後急成長を遂げたため、中身の薄まりがちであった電通を、確実に厚みのある、新しい方向へと導いて行ったのである。

(文中敬称略)

◎次回は4月26日に掲載します。

プロフィール

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    北野 邦彦

    1937年生まれ。早大第1商学部卒。63年電通入社。秘書室長、広報室長などを歴任。01年より帝京大文学部社会学科教授を務めた。著書に『日本の広報・PR100年』(共著/同文館)、『実践マーケティング・コミュニケーションズ』(共著/電通)など。

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