電通を創った男たち #81

松本豊三と電通の満州・大陸帰り、

復員軍人たち(6)

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    北野 邦彦

ビデオ・リサーチ創業者・森崎實

 

森崎實も、松本豊三同様、満州帰り、満州マスコミ界のトップに位置する人物であった。森崎が電通であげた業績は、松本豊三のそれに決して劣ることなく、まさに比肩するものであった。 まずは、森崎實の経歴を辿ってみよう。

日露戦争が終結した翌年の1906年、福岡県に生まれ、1930年、早稲田大学政治経済学部経済学科を卒業し、『時事新報』に入社する。盛岡支局を経て、東京本社社会部、政治部の記者となるが、1936年、『時事新報』が廃刊となったため退社し、翌1937年、満州に渡り、満州国通信社(国通)に入社する。1938年、満州国通信社が『満州新聞』を創刊すると同紙に出向となり、政経部長、編集局次長、新聞局長を歴任。1944年、『満州新聞』と満鉄系の『満州日日新聞』が合併し、『満州日報』が創刊されると同紙編集局長となる。
この時、松本豊三は『満州日報』理事長として上司であった。 1945年、敗戦により『満州日報』は解散となり、森崎はソ連軍に3年間シベリアに抑留され辛酸をなめ、1948年引き揚げる。

森崎實氏
1930年、時事新報盛岡支社で見習い記者時代(右)
1930年、時事新報盛岡支社で見習い記者時代(右)

1949年、電通入社。東京本社事業局出版部次長、営業局営業総務部長、企画調査局出版部長、ラジオテレビ局総務部長、同企画第2部長、ラジオテレビ局次長を経て、1960年、企画調査局長に就任。翌年、企画調査局が調査局と開発局に分離改組され、開発局長に就任する。

マーケティング部、PR部、出版部、開発部、年鑑編集室からなる51名の局員数であった。電通では、元新聞記者のキャリアを生かし、出版、ラジオテレビ、企画調査などの部門で活躍した後、PR部門の総まとめ役として、1961年に発足した電通PRセンターの会長に就任する。

1957年、電通ラジオテレビ局時代に「エノケン・がんばれ人生」の出演者・スタッフらと(前列左端)
1957年、電通ラジオテレビ局時代に「エノケン・がんばれ人生」の出演者・スタッフらと(前列左端)

PRこそは、吉田秀雄が1946年の「活動方針」で2番目に挙げた重要項目であり、永年にわたる新聞記者のキャリアのある森崎には、まさにはまり役であった。ところが電通PRセンター会長として、吉田秀雄が目指したPR業務の導入と普及に本腰を入れようとしていた矢先、とんでもない難題が森崎を襲った。それは、テレビ視聴率調査のための新会社設立に、是非、森崎の力を貸してほしいという、吉田秀雄からの、たっての申し出であった。

1950年代、テレビ視聴率調査会社として、アメリカのACニールセンが日本に進出していたが、吉田秀雄は、アメリカの会社にテレビ視聴率調査を任すべきではない、テレビ視聴率調査は、電通と民放が共同で新規事業として実施するべきだと唱え、既にACニールセンと契約を結んでいた日本テレビを除く各局もこれに賛同し、1962年9月、新会社、(株)ビデオ・リサーチを設立する運びとなった。

1962年、ビデオ・リサーチ発起人総会で
1962年、ビデオ・リサーチ発起人総会で

全国の主要放送会社18社と電通、視聴率調査のための測定機器を開発した東芝が出資し、新会社の社長には、電通東京本社企画調査局長の杉山栄一郎が内定していた。ところが、新会社発足の1カ月前の8月、杉山が健康上の理由で社長就任を突如辞退したのである。 困り果てた吉田は、森崎に社長就任を要請する。森崎にとってみれば、発足後間もない電通PRセンターを見捨てるわけにはいかない。そうかといって、吉田のたっての頼みである。しかも、先行きが全く見えていないテレビ視聴率調査事業を引き受けてくれというのである。森崎は吉田の頼みを受けるべきか断るべきか、迷いに迷った。

森崎は、この時の心境を次のように記述している。

このようにぎりぎりの、いわば瀬戸際での引受けだった。たとえれば、ピンチヒッターあるいはリリーフピッチャーとも言えたろうが、しかし状況と事業見込からすれば、むしろスケープゴート(いけにえの羊)になりかねない立場のものであった。これは極端な言い方をすれば、火中の栗を拾うに似ていたと言えたろう。その時、私は50も半ばで取り返しのきかない年配であった。さらに個人的生活の場からすれば電通は退職してのことだ。そうであれば、全く背水の陣で、この新たなる場で生き抜き、わが身を立てるよりほかに手はない。そしてこの事は偽りなく言えることだが、この仕事が私の生涯の決算と思えてならなかった。これからの人生が如何になるのか分からないが、この事業、仕事がわが最終のバランスシートになるだろう事だけは確かだと思った。
『わがビデオ・リサーチ史』

どんな予見不可能で困難な事態が待ち構えていようが、同郷の福岡県人としても、また、 戦後の困難な状況に置かれていた時に、電通という場を差し出してくれた吉田に対する返 礼としても、この申し出を断るわけには行かないというのが、熟考を重ねた挙句の森崎の 得た結論であった。

こうして森崎實は1962年、ビデオ・リサーチ社設立に伴い同社社長に就任し、以後15年にわたりテレビ視聴率調査の導入と全国展開に力を注ぐ。

1972年には、懸案であった博報堂と大広もビデオ・リサーチに資本参加し、また、日本テレビとも取引を開始し、新式の「ミノルメーター」も導入されるなど、経営の安定拡大が一気に進むこととなった。1977年には社長を退き相談役となるが、1981年、肺がんのため逝去。九州男児らしい骨太の75歳の人生であった。1983年、ビデオ・リサーチ2代目社長、波多野清冶らにより、『森崎實さんを偲ぶ』が刊行された。寄稿者は誰もが森崎の誠実な人柄と仕事に対する情熱を熱く語っている。

1971年頃、データテープの回収員と歓談
1971年頃、データテープの回収員と歓談

戦前から新聞記者として健筆をふるい、戦後シベリア抑留から帰還され電通に入社した森崎さんは、鬼のように働いた。
時事新報の解散から満州での記者生活、そして敗戦と抑留という人生前期のうっ屈を突き破るように、戦後の情報文化の発展に情熱をそそいでこられたお姿に、私は明治人の気骨を見た。シベリアで地獄をのぞいた人だけが持つ度胸のよさと、透徹した眼力をもっておられた。…森崎さんの一生を眺めて感ずるのは、筋を通した人生だということである。(小宮山重四郎・衆議院議員)

森崎は、ビデオ・リサーチの経営の困難さを十分に予期していたため、社長に就任しても、極力無駄を排した。来客用のソファーも電通の倉庫から担ぎだした古道具であり、暖を取るにも石油ストーブでという有様であった。

森崎さんと言う時、何時でも頭に浮かぶシーンは、『(西銀座の高速道路の下、今のコリドー街)あのガード下の一室、スプリングの飛び出たソファーに私を座らせ、真黒に陽焼けした顔、眼光炯々として視聴率調査の抱負を語られた』光景である。

私は、その意気と共に、新しい仕事を始められるのに、こうした出発をされる実業家の厳しさとそれを物ともしいない森崎さんの姿に甚く心を打たれた。…私は森崎さんに学ぶ所が多かった。生前には恥ずかしくてなかなか言える者ではないが、今にして始めて書けることである。(林知己夫・文部省統計数理研究所長)

吉田秀雄は、何としてもビデオ・リサーチを世に送り出したいと願ったが、森崎實の的確な経営判断と全身全霊的な無私の努力が無ければ、吉田の夢は決して実現できなかったというべきであろう。

(文中敬称略)

◎次回は5月2日に掲載します。

プロフィール

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    北野 邦彦

    1937年生まれ。早大第1商学部卒。63年電通入社。秘書室長、広報室長などを歴任。01年より帝京大文学部社会学科教授を務めた。著書に『日本の広報・PR100年』(共著/同文館)、『実践マーケティング・コミュニケーションズ』(共著/電通)など。

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