電通を創った男たち #83

松本豊三と電通の満州・大陸帰り、

復員軍人たち(8)

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    北野 邦彦

他にもあまたの逸材が

 

松本豊三、森崎實、小谷重一のほかにも、電通における満州帰り、大陸帰り、復員軍人の逸材は数多いが、その中から何人かの人々の足跡を追ってみよう。

市川敏は、東大卒業後、満州国国務院総務庁弘報処長として、満州国の弘報政策を展開する総責任者となった。しかし、引き揚げ後、結核の療養生活に入る。吉田秀雄と東大同期であったこともあり、生活に困窮していた一助にと、吉田は市川を電通東京本社総務局付とし、神奈川県葉山町にあった電通の厚生寮「卯辰荘」の管理人を引き受けてもらう。
健康が回復するまで、海辺に面し空気の澄んだ葉山で、ゆっくりと療養してもらおうという、吉田の温かい思いやりであった。
健康が回復した市川は、東京本社総務局長から1957年に常務取締役、1960年に専務取締役となり、戦後急成長し、組織、体制の整備が追いつかなかった電通の経営管理システムの近代化に全力を投入した。

金沢覚太郎は、東大卒業後満州に渡り、満州電信電話会社が経営する満州放送総局副局長で引き揚げる。金沢は、民間放送開局計画を練っていた吉田に乞われ、電通に入社する。満州放送局は、満州全域で日本語、中国語のコマーシャル放送を行っていたので、日本で民間放送が開局した場合、どのようにコマーシャルを導入したらよいのかについて、金沢の持つ知識が大いに役に立った。
1949年開催の「広告講習会(後の夏期電通広告大学)」で金沢は、「商業放送の企業性」のタイトルで講演を行っている。民放ラジオ局の第1号である中部日本放送、新日本放送から電波が出される2年前のことである。
金沢は、電通東京本社・東京放送創立委員となるが、その後電通と朝日、毎日、読売各新聞社が出資して1951年暮れに開局したラジオ東京(現東京放送)開局時に、編成局長として送り込まれ、揺籃期の民間放送の発展のために大きな足跡を残し、1957年、日本教育テレビ編成局次長、1966年、日本民間放送連盟放送研究所副所長となり、国語審議会委員なども務めた。

古賀叶は、東大卒業後満鉄に入社。満鉄錦州鉄道局長の時、敗戦を迎える。戦後電通に入社するが、東京本社ラジオテレビ局長、経理局長を歴任。経理局長の時、松本豊三らと共に副社長の肩書を与えられる。

吉田の外資系広告主獲得の計画に沿って、1963年に設立された広告会社、JIMA(ジャパン・インターナショナル・マーケティング・アンド・アドバタイジング)の社長に就任。満鉄時代の部下であった小谷重一を専務取締役に迎える。
JIMAは1981年に、電通とアメリカの大手広告会社、ヤング&ルビカムとの合弁で電通ヤング&ルビカムが発足した時の母体となった。

昭和30年代前半の役員・幹部の写真集。市川敏(中段右)、古賀叶(同右から2人目)、森山喬(同左)、高橋渡(下段右)の顔が見られる
昭和30年代前半の役員・幹部の写真集。市川敏(中段右)、古賀叶(同右から2人目)、森山喬(同左)、高橋渡(下段右)の顔が見られる

森山喬は、同志社大学卒業後朝日新聞に入社。朝日新聞東亜部次長から、上海の有力邦字紙『大陸新報』の編集局長、専務理事となる。引き揚げ後は、上海時代以来の旧知の仲であった吉田秀雄の招きで、1949年、電通に入社する

吉田は電通の新規事業領域としてPR部門の導入を計画していたが、1949年暮、わが国企業としては初めてのPR部を総本社機構として開設し、入社したばかりの森山を部長に任命する。しかし組織、人材共に充実していたとは言い難く、本格的に活動するのは、翌1950年、PR部を東京本社営業局に移管し、小谷重一がPR部長兼外国部長に就任して以降のこととなる。
1950年、森山は企画室勤務、次いで1951年に秘書役、1957年に東京本社ラジオテレビ局長、翌年常務取締役となる。

高橋渡は陸軍士官学校に入学したが、健康上の理由で退学し東大に進む。その後満州に渡り、『満州日報』業務局長から電通東京本社営業局調査部長、同中央部長、営業局長、大阪支社営業局長、常務取締役、専務取締役を経て、1963年に副社長となる。

塚本誠は陸軍大佐、東京憲兵隊特高課長が軍役の最後であった。戦時中、上海に派遣されていた時、大陸新報編集局長・専務理事であった森山喬と知り合い、先に電通に入社した森山の紹介で、1949年9月、電通に入社する。
1952年、東京本社ラジオテレビ局テレビ営業部長となり、その後第2連絡局長、連絡総務を経て、1965年、取締役に就任。持ち前の明るい性格と豊富な人脈、知識、話術で多くの広告主や媒体関係者を電通シンパにした。『或る情報将校の記録』(中央公論)を著し、自身の活動を詳細に記述している。2014年7月、「電通を創った男たち」シリーズに登場した塚本芳和は、塚本誠の長男である。

これら、吉田秀雄が採用した満州帰り、大陸帰り、旧軍人といった人々の電通での活躍ぶりを知るにつけ、吉田という男の持っていた、戦後の電通の置かれていた状況に対する把握力、そのために必要とされる人材の選眼力により、電通は組織と業務内容を大幅に拡大させ、戦後の困難な時期をなんとか乗り越え、ここまで成長することができたのだと、半世紀を経た21世紀の今日、改めて強く思う。

(完)

社長就任時の吉田秀雄
社長就任時の吉田秀雄

プロフィール

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    北野 邦彦

    1937年生まれ。早大第1商学部卒。63年電通入社。秘書室長、広報室長などを歴任。01年より帝京大文学部社会学科教授を務めた。著書に『日本の広報・PR100年』(共著/同文館)、『実践マーケティング・コミュニケーションズ』(共著/電通)など。

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