電通を創った男たち #92

未知への挑戦・電通国際情報サービス(ISID)を立ち上げた男 

大竹猛雄(1)

  • Tsuchibashi profile
    土橋 赳夫

生い立ち

JR品川駅山手線ホームから南の空を見あげると、青色の「ISID」のサインが目立つ19階建てのビルが見える。株式会社電通国際情報サービス(以下ISID)の本社である。
東証一部上場、資本金81億8,050万円、国内外合わせて15の連結子会社を擁し連結従業員2,502名、売上高783億円(平成27年3月期)。

電通初の外資との合弁会社で米国ゼネラルエレクトリック社(以下GE)をパートナーに、当時としては先進的な世界的規模のコンピューターネットワークによる遠隔情報処理サービス(現在のクラウドコンピューティングに近い)を主業務として昭和50(1975)年に設立された。

ISID本社ビル
ISID本社ビル

創業から40年目の今日、あらゆるビジネス領域において、コンサルティングからシステム受託開発、ソフトウェア、ハードウェア、クラウドサービスの提供、ネットワーク構築、さらにシステムの運用管理まで、情報通信サービスのフルメニューを提供することで得意先の課題解決を支援する総合情報通信サービス会社に成長し、近年では電通とのコラボレーションも活発に行っている。
昭和46(1971)年、GEとの技術提携により、わずか12名の要員で始まった電通タイムシェアリングサービス(以下電通TSS)局がその前身である。パソコンもインターネットも存在せず、通信法制も整備されていなかったこの時期に情報通信という未知の領域に進出するのはまさに海図なき航海に踏み出すようなものだったが、その船長の立場で主導したのが当時の常務取締役でISID創業社長となる大竹猛雄だった。将来を担う逸材として電通の経営に直接関わり続けると思われていた大竹を情報通信事業のパイオニアへ変身させたものは一体何だったのだろうか。
電通は言うまでもなく広告会社である。明治34(1901)年に光永星郎が設立した日本広告は、後に電報通信社と合併し日本電報通信社となり、広告取次とニュース配信を業務とするが、昭和11(1936)年、通信業務は同盟通信社に、広告は日本電報通信社に分離独立される。そして歴史の流れの中で、初代光永星郎社長以来、歴代の幹部・社員たちの進取の精神により、その後の電通は今日に至るまで多様な分野に乗り出してきた。特に第4代吉田秀雄社長以来、「ウィングを広げろ」「カテゴリーを広げろ」といったチャレンジ精神が連綿と続いている。
しかし、吉田は一方、まだ企業としての存在価値がさほど認められていない広告会社の将来は人材だということを痛感していた。吉田は機会あるごとにこれはと言う人物を電通に引き込んだ。本シリーズ「電通を創った男たち」に登場する人物にも吉田に誘われ入社し電通発展にその優れた力を発揮した人物が多い。 大竹猛雄もその一人である。

大竹は米国生まれである。山梨県出身の大竹徳治(1887~1949)、玉代(1891~1972)の三男として大正9(1920)年1月21日、米国ロサンゼルス市郊外のワッツ市(現在はロサンゼルス市に吸収)で生まれた。玉代の父(広瀬守令)は若い時に大隈重信に傾倒し、その政治資金援助のために先祖伝来の田畑を売り払い、郷里に居られなくなって一旗あげようと渡米した熱血漢であった。当時はロサンゼルスで「羅府新報」(ロサンゼルスに本拠を置く、アメリカ最大の邦字新聞、1903年創刊)の主筆をしていた。彼が長女玉代の結婚相手に選んだのが同郷の後輩である大竹徳治であった。

大竹誕生日の「羅府新報」1面
大竹誕生日の「羅府新報」1面

大竹徳治は現在の山梨県山梨市牧丘町杣口(そまぐち)の代々名主の次男で、家督は兄が継いだため夢をいだき同郷の大先輩である広瀬守令を頼って17歳で単身米国に渡った。当初サンフランシスコの日本人町のクリーニング店で働くなど職を転々としながらも苦労して学業にも励んだ。サンフランシスコ在住時の大正2(1913)年8月9日に長男の貞雄が、翌年11月に次男の守雄が誕生した。ともに米国で生まれた3兄弟の絆は深く、後に成人した兄ふたりとも大竹が入社した電通と密接な関係を持つことになる。
しかし徳治は結核を患いクリーニング店を辞め、しばらくキャンディーストアを営んだが、大正8(1919)年、一家はロサンゼルス郊外のワッツ市に移った。南カリフォルニアの輝く太陽と乾いた空気が徳治の健康を回復させた。徳治は農場を立ち上げ、人参やラディッシュを、大正10(1921)年春からはレタス栽培に専念したがこれが当たり、3年間好景気が続いた。大竹が生まれたのはこの時期であった。
しかし、日米関係の悪化とともに日本人への排斥はその度合いを強めていった。そして大正13(1924)年7月1日、いわゆる「排日移民法」(正確には「1924年移民法」)が施行された。もともと永住するつもりのなかった徳治は、商売の途中「ジャップ」と投石された苦い思いもあり、子供たちの将来を考え同年8月日本へ帰国する。当時大竹は4歳で小学校入学前だった。かすかに米国生活の記憶が残っていると後年語っている。
一家は徳治の郷里である杣口に住み、兄の貞雄と守雄は村の小学校に編入した。しかし、髪を伸ばしニッカボッカー姿で登校する兄たち(英語も得意だった)が「変な日本人、外国人のまねして」と坊主頭の子供たちにいじめられるので、1年後徳治は米国生活で貯めた資金を元に東京中野区宮園通りのアパートを購入し、一家は移り住んだ。徳治は海軍省御用達の機械製作所を経営していた母方の叔父に現場技術者として雇われ、少ない給料の足しにアパートの家賃収入に頼った生活だった。けっして裕福とは言えなかったようだが、長男の貞雄、次男の守雄はサンフランシスコで過ごした記憶が忘れられず、貞雄は青山学院中等部を卒業した昭和7(1932)年8月に渡米し、9月、ロサンゼルス・ポリテクニック・ハイスクールに編入学した。次兄の守雄も早稲田中学を卒業し兄のあとを追って渡米した。

(文中敬称略)

◎次回は6月28日に掲載します。

プロフィール

  • Tsuchibashi profile
    土橋 赳夫

    1938年生まれ。東京大学文学部美学美術史学科卒。62年電通入社。本社営業部長、関西支社総務局長、常勤監査役の後、電通国際情報サービス常勤監査役を務める。退任後、パナソニックのグループ会社アイ・マーケティングアドバンス株式会社顧問を8年間務めた。

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