電通を創った男たち #93

未知への挑戦・電通国際情報サービス(ISID)を立ち上げた男 大竹猛雄(2)

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    土橋 赳夫

二人の兄

 

次兄の守雄は渡米後、ジョージ・ワシントン大学、ミシガン大学で学び、戦時中は米軍陸軍情報部の日本語教師として働いた。昭和24(1949)年11月、ニューヨーク生命保険会社代理人となりシカゴに住む。昭和35(1950)年4月、電通はシカゴ市とロサンゼルス市に駐在員をおくことになり、守雄は弟猛雄(当時、出版連絡局連絡部長)との縁もあってシカゴ嘱託駐在員として事務所が閉鎖されるまでの28年間勤務した。

電通も当時米国各地に伝手が豊富にあるわけでなく、守雄は面倒見がよく、シカゴ駐在員になる前からシカゴ出張の社員や得意先、タレントなど多くの人間が世話になっていた。なお、終戦後兄貞雄がB級戦犯の疑いで尋問を受けた際、担当検事が守雄の日本語学校の教え子であることが判明し、無事解放された思いがけない出来事があった。守雄は平成17(2005)年11月2日、シカゴで亡くなった。

昭和62年社長招待により来日した守雄夫妻
昭和62年社長招待により来日した守雄夫妻

一方、三男の猛雄は4歳までの幼少時代であり、よい思い出もなく、兄たちのような渡米感情は起きなかった。貞雄と守雄は年子であったが、猛雄は長男と6歳、中野で生まれた妹とは8歳の年齢差があり、兄たちの渡米後は母玉代から一人息子のように育てられた。一方、父徳治の教育には明治生まれの厳しさがあり、家庭環境としては厳格だが寛容でバランスのとれた雰囲気の中で気骨ある男子として成長した。

猛雄は無意識のうちに杣口での兄二人の体験から、英語を話すと皆にいじめられるとの先入観を抱いていたのか、大学を卒業するまで積極的に英語に親しもうとはしなかったし、自分が米国生まれであることもあまり語ろうとはしなかった。旧中野区立桃園第三小学校を卒業、旧制早稲田中学を経て旧制第一早稲田高等学院へと進み、現早稲田大学政治経済学部を昭和18(1943)年9月に学徒出陣のため繰上げ卒業した。

早稲田高等学院入学時
早稲田高等学院入学時

学業成績は常に上位でスポーツにも長けていた。どちらかと言うと目立つ行動派ではなかったが、人望があり推されて生徒会の役職や部活動の主将として活動した。旧制中学時代は次兄守雄の影響もあり弓道部で活躍したが、大学時代は創設後間もないレスリング部(フェザー級)で活躍し、先輩の八田一朗(日本レスリグ界の父、1906~1983)らと日本におけるレスリング普及活動に貢献した。

また漫画を得意としていたため、当時の応援部に頼まれ早慶戦の看板作りに携わっていた。
特にフクちゃんの漫画(横山隆一作品、着物に下駄、大学帽の姿が特徴、早稲田大学のマスコットキャラクーであった)を模写するのが得意だった。猛雄はこの得意の漫画を戦地(中国)にいる長兄貞雄に宛てた家族の手紙に添え書きしていた。

大竹作の家族通信
大竹作の家族通信

猛雄の早稲田大学時代、兄貞雄の嫁(義姉)の弟高村統一郎が商学部に在籍しており、二人は面識があった。二人とも学徒出陣で統一郎は特攻隊を志願し沖縄沖で戦死するが、昭和18年10月入隊した猛雄は陸軍主計学校の幹部候補生となり、まもなく終戦を迎えたため戦場に出ることはなかった。
昭和20(1945)年10月に復員した猛雄は、祖父(広瀬守令)と兄貞雄(当時、共同通信社編集局英文部次長)の生き方にあこがれていたのでジャーナリズムの世界を希望した。
長兄貞雄は渡米後、母方の祖父広瀬守令が主筆である「羅府新報」に勤務しながら学業に励み、昭和9(1934)年10月米国で新聞聯合社(後に日本電報通信社の通信業務を吸収同盟通信社となる)ニューヨーク支局嘱託通信員に採用され、ニューヨーク大学政治経済学部に通学した。昭和14(1939)年、同盟通信社正社員となり昭和15(1940)年12月東京本社に転勤、昭和17(1942)年1月に召集されて中国に出征、昭和19(1944)年2月参謀本部情報担当米国班に移る。陸軍参謀本部少尉を経て除隊、昭和20(1945)年11月1日、同盟通信社解散により新たに設立された共同通信社に編集局英文部次長として復帰、以後ボン支局長・ワシントン支局長・東南アジア14カ国特派員など数々の重要職場を歴任、国際局長で昭和41(1966)年に依願退職した。

参謀本部時代は抜群の英語力により、日本軍側通訳として、終戦処理のマニラ会談、マッカーサー司令官の先遣隊との会談など、米軍との重要な交渉の場に立ち会った希有な体験の持ち主である。共同通信社退社後は「日本リーダーズダイジェスト」編集長やジャパンタイムズ社の編集委員を務め、昭和58(1983)年3月25日、69歳の波乱に満ちた生涯を閉じた。

1945.8 厚木先遣隊出迎えの貞雄
1945年8月、厚木先遣隊を出迎えた貞雄

なお、マニラ会談の折、貞雄の妻悦代の実弟高村総次郎が米国側日本語通訳として参加していた。立場上公に名乗れぬが、ひそかにあいさつを交わし、貞雄は妻悦代の無事を伝えたのだった。
貞雄は昭和26(1951)年、対日平和条約締結取材のためサンフランシスコに特派員として単身派遣されダレス特使との単独会見に成功した。そして同年、その年の最も優れた国際報道活動を行った記者に与えられる「ボーン国際記者賞」を受賞した。賞の名称となったウィリアム・ボーンは貞雄が同盟通信ニューヨーク支局に勤務時UP通信社の外信部長であり、以来貞雄が師と仰いだ人物である。ボーンはUP通信社総極東支配人の昭和24(1949)年1月、電通第3代社長の上田碩三とともに事故で亡くなった。この二人の功績を記念し昭和25(1950)年「ボーン国際記者賞」が創設され、昭和53(1978)年から「ボーン・上田記念国際記者賞」となった。

(文中敬称略)

◎次回は7月4日に掲載します。

プロフィール

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    土橋 赳夫

    1938年生まれ。東京大学文学部美学美術史学科卒。62年電通入社。本社営業部長、関西支社総務局長、常勤監査役の後、電通国際情報サービス常勤監査役を務める。退任後、パナソニックのグループ会社アイ・マーケティングアドバンス株式会社顧問を8年間務めた。

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