電通を創った男たち #88

永遠のCM少年 内藤俊夫(5)

  • Uchida pr
    内田 東

いつかはクラウン

 

電通の富士登山は他に類をみない独特の伝統行事である。第1回目は1925(大正14)年、光永初代社長時代に、「健・根・信」を具現化する場として始められた。大きな髭をたくわえた光永は黒い詰襟服を着て、ウコンの締り巾着を腰に下げて御殿場にやってきた。登山のときは片方真っ赤、片方青色のだぶだぶのズボンをはき、肩から斜めに電通と書かれたたすきをかけた。「徳富蘇峰は筆で偉くなったが、おれは足で偉くなる」といったが、巨体なので脚がもろい。頂上まで、屈強な人夫4人(それに交替要員4人を連れて)がかつぐ駕籠に身体をゆだねて登山した。1945~47年は戦争のために中断されたが、それ以外は毎年恒例行事として実施された。昔、御殿場線は東海道本線であり、電通富士登山一行を乗せた汽車がホームへ入ると一斉に花火が打ち上げられ、音楽隊がブカブカと歓迎の演奏をした。

「人生は富士登山だ。人生行路そのものだ」といったのは4代社長吉田秀雄である。
やればできるという体感を磨きあげるために、局ごとに選抜チームをつくって、夜中の富士山を駆け足で頂上を目指すのである。頂上班の内藤が寒さにブルブル震えながら登山道を見下ろすと、ヘッドライトが見え隠れしながら上へ上へと登ってくる。だんだん増えてくる灯の数を見ているとなぜか感動に襲われたものである。新入社員時代、頂上班や殿班を受けもって3年ほど続けて登った。妻と娘2人を伴って登ったときもあった。

富士山頂で。長女のあづさと
富士山頂で。長女のあづさと

何事につけても、リーズンホワイを見つけださないと気のすまない性質である。「なんで登るかというと、衰えて行く体力を確かめてみようということです。だから山小屋ごとの通過時間を全部スコアにとっておいて、比較しながら登るのです」と、やることは細かい。アメリカ人は統計好きといわれるが、内藤も引けをとらない。どんなに疲れていても、時計をのぞきこんで通過時間をメモしておく。昨年に比べて22分遅れているぞ!と、富士登山を自己の体力測定の目安にしていた。
楽しみは「砂走りを下りたところの小屋で、ビールの大ビンを一気に呑むこと」であった。砂走りの下りは走り出すととまらない。走りながら転がりながら、落下地点での汗まみれのビールは格別だった。内藤は健脚である。築地の電通から杉並の松の木の自宅まで徒歩で帰るなどは朝飯前であった。自販機で缶ビールを買い求め、飲みながらひたすら歩く。「3缶も飲めば、家までたどり着く」と豪語していた。
内藤ファミリーは山が好きだ。“気楽な山の仲間”というパーティーに入っていて家族4人連れだって、遠くは夜行列車で会津の山々や乗鞍、剣岳へ、近くは高尾山へ日帰りで出かけた。登山に夢中になってしまい、ゴルフと出会うのが遅くなったといったことがある。

内藤に、電通生活で大きな光をあたえてくれたのは若き日のアメリカ留学である。広告のメッカ ニューヨークでの研修によって、34歳の柔軟な感性は国際人としての身のこなし方を体験した。まして専門分野であるクリエーティブは、本物に触れることで、広告のアプローチの大切さを肌に沁みこませた。1年足らずの海外研修が、クリエーティブの内藤をアメリカ通の国際派の内藤へ仕立てあげた。本人以上に、周囲がそういうイメージを抱き始めた。
留学時代の古びたノートをひっ張りだして見なおすことがある。J・ウォルター・トンプソン社制作の10分10秒という最長のフォードの企業CMを見たときの印象が書きこまれている。そこで何度かくり返された3つのフレーズが、内藤の心に焼きついている。

1.a soft spot(急所)
2.one half car, one half you(半分が車で、半分はあなた自身)
3.better ideas(一歩すすんだアイデア)

とくに強烈な印象を受けたのが、「半分が車で、半分があなた自身」ということばであった。「あなたの分身になるような車」をフォードはつくってきたというのである。これを商品の本質を構成する式に直すと、1/2物質+1/2人間=一つの商品となる。この方程式は車だけでなくて、広告を必要とするすべての商品に当てはまると思った。「生まれてくる商品は、人間と結びついて物質以上の生命が内在しているのだ」。内藤は、僧侶が悟りの境地に達したような崇高な気持ちに襲われた。

1983年、7代目の新型トヨタ・クラウンのキャンペーン作業と取り組むことになった。内藤は官公庁の公用車や企業の社用車として君臨してきたトヨタの最上位モデル、クラウンの広告表現の仕事を10数年続けてきた。スタッフとのブレーンストーミングが続くが満足できるアイデアはでてこない。ここから社内行脚が始まる。「すみません。トヨタのクラウンについて、ひと言ください」と、他のクリエーティブ・スタッフやマーケティング局、営業局、果ては媒体各局、総務局まで足を運ぶ。クラウンはその製品の中に必ずドラマを秘めているはずだ。内藤は机に向かって呻吟するのではなくて、はいずり回って、ドラマの発掘作業に精をだすのである。あのone half car, one half you.乗る人の分身であるようなクラウンにしたい。オーナーの心のひだに沁みこむ誠の表現を見つけだしたい。これまで「クラウンは人を語る」とか「ちょっと誇らしく」と、オーナーの人となりと重ね合わせる表現をとってきた。

マーケティング局の安田和紘の「いつかは乗りたい車だね」というつぶやきが耳に届いた。コツコツと努力して、地位も得て、経済的にもゆとりが生まれたときの、がんばった人のご褒美としてクラウンは存在する。汗水を流してきた生きざまの沸騰点が、私のクラウンであり、「いつかはクラウン」なのだ。内藤はようやく金脈に触れた思いがした。オーナーの生き様の分身として、ピタッとはまった表現が「いつかはクラウン」なのである。

7代目新型クラウンの雑誌広告
7代目新型クラウンの雑誌広告

2003年登場の12代目が「ゼロクラウン」と、若返りを図れるのも「いつかはクラウン」が下敷きになっているからいえるのである。「Re Born」したクラウンは「権力より、愛だね」とささやきながら、愛の象徴としてピンク色のボディカラーで登場した。黒の公用車で鳴らしたクラウンは、1967年頃から白いクラウンへと変身しファミリーカーとして一時代を築いてきた。そしていまやピンクのクラウンである。「クラウンは色事師だね」と軽口をたたいてほほ笑むか、泉下の内藤の反応を見てみたいものだ。クラウンを究極のone half car,one half youの車にしたいと願った内藤と、ピンクのクラウンについて色事談義を交わしてみたいと思うのは筆者だけではないだろう。

(文中敬称略)

◎次回は5月31日に掲載します。

プロフィール

  • Uchida pr
    内田 東

    1938年東京都生まれ。早大文学部国文科卒。62年電通入社。本社宣伝技術局に配属され、キリンビール、三菱電機、アデランス、味の素などの広告キャンペーンに参加。朝日広告賞、毎日広告賞、カンヌ国際広告祭、全日本CMコンクール、日本雑誌広告賞などを受賞。電通中部支社マーケティング・クリエーティブ局長、目白大学社会学部メディア表現学科教授などを歴任。東京コピーライターズクラブ、日本広告学会会員。

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