電通を創った男たち #90

永遠のCM少年 内藤俊夫(7)

  • Uchida pr
    内田 東

悪戦苦闘

 

日本で成功してきたように、クリエーティブ・ワークを武器にしてアメリカのクライアントを奪取したいと考えた。
異文化の集合体であるニューヨークでは英語を理解できない人も大勢おり、考え方も千差万別である。DCAのクリエーティブ・スタッフは、言語よりもビジュアル系のノンバーバル(nonverbal =言語を使わず、視覚に訴える)のコミュニケーションの方が伝わりやすいと思いこんでいた。内藤流のプレゼンテーションは、リサーチをよりどころにして、what to say(何をいうか)を探求することから始まる。ストラテジー(strategy=戦略)のない広告は羅針盤なしで航海する船であり、単なる漂流船にすぎない。うわっ面のhow to say(どう表現するか)ばかりにこだわるスタッフとの間に、絶望的な溝の深さを感じた。「クリエーティブの立場からいかにサポートするかが私の使命だ」と思っていたが、肝心のクリエーティブが、内藤と異なるやり方をしているのだ。陸にあがった河童のように何もできなかった。英語に達者ではなくて、ストラテジーづくりに達者なコピーライターがほしい。クリエーティブのやり方を根本から変えて、クオリティーを高めたいと思った。

1989年12月、スペインのスパークリングワインの会社ディニューを、6社競合のすえに扱いを獲得した。これでブロードウエイのBlack&Blueとレンタックに続いて、DCAは3つ目の日本系以外のアカウントを獲得したことになる。
この年電通は取扱高1兆円を達成した。内藤は「今、アメリカ。偉大な企業群がそびえ立つこの地で、初心にかえって次の目標に挑みたい。そのひとつは私たちのサービスを全世界にひろげてゆくことだろう」と、高ぶる気持ちで語った

役員就任インタビューでDCAへの思いを語る内藤
役員就任インタビューでDCAへの思いを語る内藤

「俳優が舞台で上手に演じられるような環境をつくるのが私の役割。だが演技が余りにもひどいと俳優をかえることもある」。DCAに就任したとき、社員を前にした内藤のあいさつである。1990年、このスピーチが現実の事態となった。DCAのCFOレイ・フリーマンが作成したリストラ案に内藤はサインをした。電通の木暮社長の「経営者としては、赤字をだしてはいけない」ということばが心にこびりついていた。人件費を削って経費節減を図ろうとしたのである。内藤と意見を異にするクリエーティブや営業のスタッフを含む20数名の解雇に踏み切ったのである。日本人はわずか1名で、あとはすべてアメリカ人であった。これが紛争を呼ぶことになる。日本の企業が、アメリカ人ばかりを解雇したので国籍による差別だと、首を切られたジャスティンら6名が解雇不当を訴えて、ニューヨーク市人事委員会に訴訟を起こしたのである。日本人の1名は女性だったので、セクハラで訴えられたという誤報が東京に飛びこんできた。内藤に限って万に一つもあり得ないと一笑に付したが、事態は深刻な方向へすすみはじめた。アメリカ下院議院の公聴会は長引き、裁判の決着がつかず膠着状態に陥った。裁判は日本の電通を巻きこむかたちになり、本社が責任を負う状況へと発展した。

「私のいままでの人脈は深いが、あるフィールド(クリエーティブ)に限られていた。経営陣に加わったからには、メディア、広告主、さらに財務面にも人脈を拡げて理解を深めたい」と意欲をしめした。内藤は、いままで首を突っこんだことがないアメリカ会計法や財務のバランスシートの解析ととり組むことになった。不慣れな財務関係の資料と夜遅くまで首っぴきとなり、余計な神経をすり減らした。読み解いているうちに、朝になったことも数度ある。疲れは頭の芯にまでこびりついた。所用で電通の本社に立ち寄った折に、クリエーティブの気の置けない同僚である長谷川馨に「夜眠れないんだ」と、こぼしたこともある。
一人で何もかもを抱え込んでいるという感覚はない。自分がオーソリティーになるという独立独歩の精神がニューヨークでは仇になった。「父の帰宅はいつも遅かった」と、次女のゆかりは述懐している。

夏休み、一家揃って、あずき色のトヨタ車を駆ってカナダのナイアガラまでドライブ旅行に出かけた。アメリカでいちばん美しい山岳ハイウエーである。ほとんどの道中を信子夫人がハンドルを握った。大空のもと大草原や大森林の雄大な景観がパノラマのようにつづき、彼方の山脈がゆったりと走りすぎてゆく。DCAでの仕事に心身をすり減らした内藤にとって、家族との旅行は心休まる貴重なひとときであった。泊まりの旅行にはボイも連れていった。ボイは必ず車酔いをした。澄んだ空気を吸わせてやれば酔いもやわらぐだろうと窓をあけてやった。首輪をつけているから大丈夫だと思っていたが、車から落ちたこともあった。

1989年、カナダのナイアガラ公園に家族旅行。信子夫人とあづさとボイ
1989年、カナダのナイアガラ公園に家族旅行。信子夫人とあづさとボイ

1979年アド・エージ誌主催の会議では、内藤の英語は発音が悪いと不評だった。発奮した内藤は、ロンドンで行われた“キャンペーン・カンファレンス”では、一単語ごとに発音記号を書きこんでスピーチに臨んだ。ネイティブの個人レッスンもたびたび受けた。外国の広告表現の解釈についてディスカッションをするのが、いちばん興味があったし効果もあった。内藤は根っからのクリエーティブマンなのである。
英会話上達のために涙ぐましい努力を続けたが、娘のゆかりによると「傍で聴いていて、英語力は素晴らしいと思いますが、発音はいまいちでした」と手厳しい。

ニューヨークに赴任してから4年の歳月がたった。DCAに対する公聴会は依然として続いており、DCAをとり巻く環境は厳しいものであった。1992年、内藤はニューヨークを離れて東京の電通本社にもどることになった。後任の社長に松島恵之が赴任した。松島が引き続き、アメリカ下院議院の公聴会の証人喚問に応じることになった。映画でしか観たことがないような法廷シーンやテレビカメラの放列にも臆することなく質疑応答に臨んだ。松島は「一生に一度の大イベントをつくってもらったと、内藤さんには感謝こそすれ恨むことはなかった」と度量の広さをみせた。
内藤はマーケティング・クリエーティブ局担当常務取締役となった。自分のフィールドにもどってきたのである。

(文中敬称略)

◎次回は6月7日に掲載します。

プロフィール

  • Uchida pr
    内田 東

    1938年東京都生まれ。早大文学部国文科卒。62年電通入社。本社宣伝技術局に配属され、キリンビール、三菱電機、アデランス、味の素などの広告キャンペーンに参加。朝日広告賞、毎日広告賞、カンヌ国際広告祭、全日本CMコンクール、日本雑誌広告賞などを受賞。電通中部支社マーケティング・クリエーティブ局長、目白大学社会学部メディア表現学科教授などを歴任。東京コピーライターズクラブ、日本広告学会会員。

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