電通を創った男たち #91

永遠のCM少年 内藤俊夫(8)

  • Uchida pr
    内田 東

蕎麦屋で一杯やりたいな

 

1995年、電通の顧問となった。ゆとりの時間がもてるようになった。
次女ゆかりの夫である松本俊一郎は日立金属に勤めるエンジニアであり、アメリカ勤務となってカリフォルニアに住んでいた。夏に入ると内藤は渡米し松本ファミリーと合流した。久しぶりのアメリカである。カリフォリニアのシエラネバダ山脈の中央部に位置する世界自然遺産のヨセミテ公園で屋外キャンプをした。娘婿の俊一郎が使っていたビデオカメラにまったく関心がないようにみえたが、カメラをこっそり操作している痕跡がビデオに残っていた。内藤はレンズ側を目に当てて撮影した様子で、目だけがギョロギョロ映っていたのだ。

ベートーベンの第九が好きで、毎年々末になると合唱団の一員となって歌っていた。自らが出演する交響楽団演奏の第九のチケットを、ノルマとして売らなくてはいけない。「第九、買いますよ」というと、なぜか態度が煮え切らない。「今年はオーディションで落ちてしまい歌えないんだ」と、悔しそうに吐き捨てた。
数日後「コーラスをあきらめたので、少し余裕ができました」という手紙が届いた。

「外国のCMを見始めてからもう50年になりました。たくさんの作品が心に残っていますが、4年前、20世紀を総括した『100 best TV commercials』という本に出会いました」この本は、20世紀に世界でつくられた無数のCMから、アメリカやイギリスのクリエーティブ・チームが選出した“これが傑作”というCMの内容と背景を描いた本である。そこに収録されているCMのなかから13本を選び、それに内藤が好きなCMを8本、21世紀に入ってからの秀逸なCMを3本、計24本を“世界のベストCM”として、VTRに収録したというのである。

100 best TV commercials
The 100 Best TV Commercials

リストの1.「Volkswagen除雪車1963年」から始まって、「union carbideひよこ1967年」、「I love new york1984年」、「Pepsi考古学1985年」、「British Airways顔1990年」、「jeep Cherokee雪に覆われて1991年」、「Mcdonald’s Sign1996年」、リストの24番目「Ikea ランプ2003年」と、一度見たら忘れられない名作CMが顔をそろえていた。これら24本のCMの成り立ちやクリエーティブ・フィロソフィーなどが事細かに語られている。世の中の変化に翻弄されるブランド、競合商品との激しい闘い、そんな姿も生々しく描かれている。これらのCMを分析すると、酸素と水素が合わさって水H2Oになるように、CMはwhat to say(何をいうか)とhow to say(どう表現するか)のアイデアが合体して生まれてくることがよくわかる。タレント力などはいっさい寄せつけず、アイデア勝負の姿勢が貫かれている。すぐれたCMに対して深い敬意をもって接している様子が、40ページにわたる原稿の隅々ににじみでていた。
リタイアした隠居がオールデーズのCMをピックアップして、懐古趣味にひたるのも悪くない。時間はありあまるほどあるのだから。でも、こうした冷やかしの見方はまったくの的外れだった。「次の時代は何か?私は、これからの広告の方向が探れないかと思い編集したものです」という内藤のコメントに触れて、脳天を叩き割られたような気がした。「期待をもつ人間は何歳になっても勉強する」といったのはバーナード・ショウである。古希をはるかに超えた今でも、内藤はピカピカの現役なのである。広告クリエーティブのあり方を模索している求道者であり、永遠のCM少年なのである。

電通勤務のあとも宣伝会議会長、早稲田電子学園理事長、電通学友会(電通出身者で大学の教壇にたち広告関連のカリキュラムをもった人たちの集まり)会長などに就いて、後進育成の仕事に携わってきた。
体力にも自信があり、生涯現役を貫きたいと思っていた。

阿佐ヶ谷の山猫軒で開かれた電通学友会の幹事会
阿佐ヶ谷の山猫軒で開かれた電通学友会の幹事会

沖縄の那覇でひらかれた日本広告学会でも、朝から夕方まで飽くことなく研究報告を聴きまわっていた。沖縄の夜は長い。学会のあと電通学友会の懇親会が那覇市のクラブでひらかれた。機嫌よく深夜まで痛飲しても、翌日は早朝から一番前の席にすわって聴講していた。広告に抱いている情熱は昔のまんま、まったく変わっていない。

2007年2月、突然脳梗塞に襲われて自宅で倒れた。自宅近くの阿佐ヶ谷の河北総合病院に運ばれた。幸い処置が早かったおかげで、手足の自由は奪われたが、しゃべり方は以前と変わらなかった。
リハビリはやりたくないという内藤に、だめっ!続けることが大切なのと若い介護師から尻をたたかれることもあった。健康に自信があったので無理をしすぎた。自信過剰が悔やまれるといっていた。天婦羅を肴に浦霞をチビチビやったあとで、もりそばをすするのが好みであった。箸がつかめなくなったので、もう蕎麦屋で一杯できないことをとても残念がった。見舞い客が、花の4月なのだから、ここで酒盛りでもやりましょうかというと、「呑みつくしたから、もういらない」といった。

闘病中にもかかわらず、世田谷の駒澤大学で開催される日本広告学会に、車いすに乗ってでも出席したいといった。しかしその執念にもドクターストップがかけられた。 内藤に「広告人の志」という一文がある。志とは「このCMで少しでも人びとのお役に立とう、暮らしをよくしていただこう、ということから始まって、大きくはコミュニケーションはどうあるべきかの答えを出そう、この仕事をして広告界に何か資産を残そうということでしょうね」。

上弦の 月に抱かれて きみの街

八王子の聖パウロ病院に入院中、お見舞にいった社友蓮見徳郎らと談笑中に詠んだ一句。
たぶんあなたが考えている句の意味とは異なっていると思われるので、野暮の骨頂だが、あえて解釈をつける。「私は地球と月を行き来する忙しい毎日をおくっている。地球と月の間にある人口衛星に住むキミのことを想いながら暮らしている。上弦の月がでている今夜、キミもこの月を眺めているのだろうか」という意味を詠みこんだと、内藤はベッドの中でボソボソと語った。近未来の宇宙時代の相聞歌なのである。思いもかけない恋の歌で生涯をしめくくるなんて…。

生命に終わりがある  恋にも終わりがくる……
 …… 粋な別れをしようぜ  (作詞・作曲/浜口庫之助 唄/石原裕次郎)

(完)

プロフィール

  • Uchida pr
    内田 東

    1938年東京都生まれ。早大文学部国文科卒。62年電通入社。本社宣伝技術局に配属され、キリンビール、三菱電機、アデランス、味の素などの広告キャンペーンに参加。朝日広告賞、毎日広告賞、カンヌ国際広告祭、全日本CMコンクール、日本雑誌広告賞などを受賞。電通中部支社マーケティング・クリエーティブ局長、目白大学社会学部メディア表現学科教授などを歴任。東京コピーライターズクラブ、日本広告学会会員。

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