電通を創った男たち #02

電通電波ビジネス黎明期の牽引者

木原通雄(1)

  • Okada
    岡田 芳郎

終戦詔勅を執筆したといわれる“すこぶる付きの伊達者”

 

私は昭和31(1956)年7月、電通に入社しました。電通とはどんな会社か仕事の内容も知らず、ただ一つのことだけ知っていました。それは前年、新聞記事で見た電通社員の心中事件です。センセーショナルな見出しで報道されたその記事は多分イエローペーパーに載ったものだったでしょう。「銀座の水商売の女性と電通社員木原通雄の心中」という出来事に文学青年だった私は、強い関心を持ちました。その時電通という会社をロマンチックな、色気のある人々の集団と思ったのです。そしてそのような大人の世界に憧れのようなものを抱いたのです。
縁あってこの会社に入り、木原通雄のことは忘れたまま60年近くが経ちました。退社して今思い出す電通人は、不思議なことに入社前に名前だけ知った木原のことです。色気のあった会社、ドラマチックな電通が虚構のように甦ってくるのです。

それは私が40年あまりを過ごした電通とは違うもののようにさえ思えます。希望と熱気だけが充満していた若い会社。未知の世界に全員で向かっていったのです。木原通雄が電通にいたのはわずか3年。今いる現役の電通社員は誰一人この名前を知らないでしょう。でも彼こそ正真正銘の電通マンだったと思うのです。

木原通雄が電通に入社したのは、ひょんなきっかけからだった。昭和26年の大晦日の昼、銀座・資生堂パーラーで吉田秀雄社長が幹部数人と食事をしているとき、木原通雄が子供を連れて入ってきた。軽く目礼してそのまま2階へ上がろうとした木原を吉田が呼びとめた。

吉田はナフキンをテーブルに置くと立ち上がって木原のところへ近づき、「木原君、きみ今どうしておるんだ」と聞いた。「何もしていませんよ。遊んでいます」とさばさばした様子で木原は答えた。俊敏なジャーナリストであり鈴木貫太郎内閣の嘱託となって終戦工作に携わり、終戦の詔勅を執筆した切れ者として知る人ぞ知る存在だった木原に吉田はお茶にでも誘う感じで言った。「それじゃ電通に来る気はないか」木原が電通に入社したのは、昭和27年1月7日付である。「さっそく明日、元旦の仕事始式の日に会社に来い」、と言われ木原はどうせフーテンの身だからと何も考えず銀座7丁目の電通本社ビル4階の社長室を訪ねた。4階の役員会議室に社長がいますから、と呼び込まれ、その場で吉田は居並ぶ役員たちに「今度わが社に入社される木原君だ」と紹介した。

電通の社内報には「ラジオ局顧問に 木原通雄氏」という見出しで記事が載っている。「木原通雄氏が一月七日付で本社ラジオ局顧問として迎えられた。同氏は山口県出身、早大卒業後,報知新聞入社、昭和十三年国民新聞編集総務となり、次いで外務省嘱託より鈴木内閣嘱託として終戦時の詔勅文案の起草に当ったことで有名。多年の新聞生活においても特にその文筆の優れた点で推称されていた。本社ではラジオ局関係の外、出版部方面で努力が期待されている」

木原は同年3月、ラジオ局制作部長、同年4月、ラジオ局次長となった。この前年の昭和26年9月1日に日本初の民放ラジオ局が名古屋(中部日本放送)と大阪(新日本放送)で開局し、続いて年内に東京、京都、福岡でも開局した。さらに昭和27年には民放ラジオ局の開局ラッシュが全国に広がる。まさにその時期に木原通雄はこの世界に飛び込んだのだ。

当時番組の製作は放送局だけではできず電通もかなりの製作陣容を揃えスタジオなども整備し盛んに番組をつくった。いい企画こそが生命であり、それに力を注いだ。木原は企画の達人として早速次々に斬新な企画をつくりたちまち電通ラジオ局の中心人物となった。そして追いかけるように翌昭和28年のテレビ開局に向けての急ピッチの準備が始まり、電通はラジオ局をラジオ・テレビ局に改編した。ラジオ・テレビ局は古賀局長以下、5人の局次長を揃え、総務部、ラジオ中央部、ラジオ地方部、ラジオ企画制作部、テレビ企画制作部、連絡部、テレビ営業部、審査室、プログラム・サービス部の9部構成、226名という大軍団だ。

木原はジャーナリストである。どんな相手にも臆せず懐に飛び込んでゆく。そこが広告会社の人間と違った。木原はこれまで社会の木鐸である新聞の記者として世を渡ってきた。どんな高い地位の人間とも対等に話をしてきた。総理大臣にも大企業の社長にも歯に衣着せぬ物言いで自説をぶつけてきた。正しいと思うことは恐れず相手に伝え、感謝もされた。その経験が自信となっている。終戦の詔勅の中の言葉「万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」には、木原のこの国への願いが込められている。

ところでラジオ・テレビ局次長・木原通雄のデスクはよく整理されていて、机上には電話機と書類を入れる整理箱が置いてあるだけだ。引出の中も余計なものは入っていない。電話の応対はてきぱきと用件のみを歯切れよく言う。言葉に無駄がない。木原は吉田社長に頼んで特別に自席の横に新入社員を電話番に置いていた。普通の局次長とは違う特別扱いだ。

木原は小太りで背は決して高くない。血色はよく、身体に精気が漲っているようだ。一見無愛想に見えるがそれは彼が意外にシャイなためだ。部下に威張ることはなく、細かいことに気を配った。給料前で金を借りに来る部下にも人前では渡さず、後で封筒に入れ電話番の新入社員に持たせてそっと渡した。服装には気を遣い、いつも清潔なシャツを着るためデスクにクリーニング屋を呼び、汚れたシャツと替えた。ある時電話番の社員は汚れた靴下を渡されたので洗い場で洗濯した。木原はクリーニングに出すよう頼んだつもりだったので、大いにそのことを気にしたという。そんな男だった。

木原は広い視野でラジオ・テレビの世界を見渡した。日本のテレビがこれからどのように展開するのか、それを正しく日本の社会に誘導してゆかねばならぬ。テレビ時代の展開が国民生活、社会情勢の全面にわたり大きな影響を与えることは予想できる。

テレビの発展によって自らの存在を危うくすると懸念するものに新聞や映画がある。これはかつてのラジオ創始期と似ている。30年前、日本にNHKのラジオ放送が開始されたとき、新聞は強力なライバルの出現として警戒し恐れたが、すぐに両者が共存共栄するものであると分かり相互が利用協力しつつ今日に至っている。

テレビをどのように日本でスタートさせてゆくか、木原はテレビ産業の水先案内人の役目を担うことになった。

 

(写真上)電話で談笑する木原、(下)木原の入社を伝える社内報

(文中敬称略)

※次回は11月6日に掲載します。

プロフィール

  • Okada
    岡田 芳郎

    1934年東京都生まれ。早大政経学部卒。56年電通入社。コーポレート・アイデンティティ室長、電通総研常任監査役などを務め、98年退職。著書に『社会と語る企業』(電通)、『観劇のバイブル』(太陽企画出版)、『日本の企画者たち~広告・メディア・コンテンツビジネスの礎を築いた人々~』(宣伝会議)など。

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