電通を創った男たち #94

未知への挑戦・電通国際情報サービス(ISID)を立ち上げた男 大竹猛雄(3)

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    土橋 赳夫

復員後の民報就職・電通入社と出版営業時代

ジャーナリストを希望する猛雄の願いに、兄貞雄は夫婦の媒酌人でもある同盟通信社の先輩松本重治(同盟通信社常務理事を経て昭和20(1945)年同社解散に伴い民報社を設立。昭和36年~平成元年電通社外取締役)が創設した、株式会社民報社を紹介、昭和20年同社に入社、販売部長として2年間を過ごす。

昭和22年、松本が公職追放により社長を辞任するが、それを機に大竹も退社する。退社後兄と同じ共同通信社を希望するが、米国の経済発展を知る貞雄は、日本においても今後の発展が期待できる広告会社の電通を強く勧めた。大竹は兄の勧めに従い、松本重治により昭和22年6月に第4代社長に就任したばかりの吉田秀雄に紹介され、同年11月21日付で電通に入社した。27歳であった。

昭和20年12月1日付の「民報」第1号
昭和20年12月1日付の「民報」第1号

ところで、大竹が復員後入社した株式会社民報社は、常務理事で同盟通信社を退職した松本重治が代表兼主筆となり、同盟の政治部長だった長島又男、編集局次長だった殿木圭一らによって設立された。同社の「民報」(のちに「東京民報」と改題)は昭和20年11月30日に発刊された第2次大戦後、東京で最初に創刊された夕刊紙である。社会部長として、後に徳間書店を創立する徳間康快もいた。

当時の社会の流れから「民主革命」の政治紙の性格をもち、そのリベラルな社説はむしろ海外から注目された。しかし「民報」の寿命は3年と短く、他の新聞同様「民主革命」の嵐が去った昭和23年11月30日に廃刊している。なお、日本共産党が昭和40年に創刊した週刊新聞「東京民報」とは無関係である。
ジャーナリスト希望の大竹がなぜ販売部長に就いたのか定かでないが、いずれにせよ、代表である松本重治の国際派ジャーナリストとしての優れた識見と、敬愛する兄貞雄の記者としてまた軍人(参謀本部の優れた情報将校でかつ名通訳だった)としての戦前戦後の多彩かつ波乱に満ちた体験が、猛雄に多大な影響を与えたことであろう。さらには、徒手空拳で渡米し、己が道を切り開いた父徳治や母方の祖父広瀬守令のチャレンジ精神の血は脈々と大竹に引き継がれていたのではなかろうか。

就職したころ
就職したころ

大竹の活躍に関して、成田豊(電通第9代社長・会長)が『ISIDストーリー(25年史)』に語っている。「1940年代、50年代においては、電通はじめ日本の広告取引はきわめて科学性に欠けていた時期で、大竹さんはそれを確立していった。たとえば、岩波書店が広辞苑を出版する際、中央紙だけであった広告を地方紙にも出すことに成功している。商品広告の効果、つまりマーケティング戦略としての広告を確立し、それをスポンサーに説得材料として示していったからだ。目に見えなかった広告効果を見えるようにし、広告の価値を高めるなど、着々と信頼を勝ち取っていった人だ」。

大竹の入社と同時期に、その後無二の親友ともなる吉岡文平(元電通副社長)など途中入社組がどやどやと入ってきた。大竹は吉田社長から、「君には出版関係をやってもらう。電通はあらゆる分野で強いけれど、出版だけが博報堂(明治28(1895)年創業)にかなわない。『博報堂に追いつき、追い越せ』を君の課題として与えるから、とにかく博報堂を追い越すよう努力してもらいたい」と指示された。大竹は仕事の拡大のため3つの課題を考えた。

当時大手出版社の扱いは電通と博報堂で分け合っていたが、中小以下の出版社には博報堂が強く電通は全く弱かった。そこで電通が企画立案した連合広告であれば参加広告主の扱いは電通になると考え、第1の課題は「連合広告」とした。第2に出版取次へのアプローチである。取次に行き、仕入れ情報を探って、よさそうな新刊があったら、小さな出版社でもすぐ飛び込んでいった。第3に、児童図書関係の扱いを取り込むため、学校図書協議会に密着し作業をすすめた。

入社当初大竹は中央部書籍係として岩波書店を担当した。前期3つの課題を己に課しつつ大竹は、岩波書店・新潮社・講談社・集英社など大手出版社の若手宣伝担当者と夜のパーティーを設営し関係強化をはかった。結果、次第にその人望とともに電通に大竹猛雄ありと言う評判が出版社に広まっていった。この中央部書籍の朝日新聞担当に中森久和がいた。中森は昭和21年入社、岩波書店の広告は朝日新聞が中心でありこの関係がきっかけとなり、以後大竹が亡くなるまで公私ともに長い縁が続いた。

昭和33(1958)年大竹が第三連絡局連絡部長であったころ、彼の発案で朝日新聞の全ページ「必読書連合広告」が企画された。他社扱いの大手出版社もありかなり難航したが無事掲載にこぎつけ、大きな反響を呼んだ。しかし他社扱いを無理に奪取したことで、収支は約100万円の赤字となり、その対策に大竹と朝日担当の中森は朝日新聞に値引きを申し入れたが断られた。気落ちしているところに吉田社長から呼び出しがあり、2人が恐る恐る顔を出すと、朝日の出版担当部長が傍におり、好評だった企画のお礼にと100万円を電通に寄贈するので何にでも使ってくれ(これで赤字を埋めてくれの意)とのことであった。まさに感謝感激だった。このような時も朝日側、吉田社長に対しても大竹はまったく悪びれず堂々と事情を説明するのだった。

また、昭和30年大竹が中央部出版連絡副部長時代には、後に大竹がISIDに引き入れ2代目社長となる一力健が入社、中央部雑報担当に配属された。これもなにかの縁であろう。

昭和33年10月17日朝日新聞朝刊の全ページ書籍連合広告
昭和33年10月17日朝日新聞朝刊の全ページ書籍連合広告

大竹はけっして口数の多い方ではなかったが、人をひきつける独特の雰囲気を持っていた。またバランス感覚に優れた人物であり、社内はもとより広告主、媒体社いずれにも人望があった。バランス感覚と言う意味では、米国育ちの兄たちの影響や、リベラルな民報社時代の体験によるのだろうか。

熱血漢で優しく思いやり深いが一方クールな側面も持ち合わせており、仕事の報告に対しても、余計なことは言わぬが、部下としては一見優しそうな眼鏡の奥からみすかされているようで嘘はつけなかった。太っ腹で「失意泰然、得意冷然」の風格の持ち主であった。
大竹は家庭では一切仕事の話をしなかった。子供たちのことも妻任せだった。家を出た後のことを家族は何も知らなかった。大竹の葬儀の時も参列者について家族はほとんど何も分からず苦労したという。

家族の写真(昭和29年ごろ)
家族の写真(昭和29年ごろ)

大竹は、酒豪であった。とりわけ兄貞雄とは互いの家が近いこともあり、頻繁に酒を酌み交わしながら仕事の悩みも打ち明けていたと言う。酔って帰る途中やくざと喧嘩して怪我のまま帰宅したことなどもあったという。

(文中敬称略)

◎次回は7月5日に掲載します。

兄貞雄(右)と
兄貞雄(右)と

プロフィール

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    土橋 赳夫

    1938年生まれ。東京大学文学部美学美術史学科卒。62年電通入社。本社営業部長、関西支社総務局長、常勤監査役の後、電通国際情報サービス常勤監査役を務める。退任後、パナソニックのグループ会社アイ・マーケティングアドバンス株式会社顧問を8年間務めた。

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