電通を創った男たち #95

未知への挑戦・電通国際情報サービス(ISID)を立ち上げた男 大竹猛雄(4)

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    土橋 赳夫

出版営業局長昇格から役員就任へ

 

大竹は昭和31(1956)年8月営業局出版連絡第一部長(35年職制改正により出版連絡局連絡部長)、38年1月出版連絡局局長、と出版社の担当営業を続け、昭和38年吉田社長の期待通り、入社した時に与えられた「出版扱い日本一」の悲願を入社16年目に達成し、亡くなる前の吉田社長に報告することができた。そして昭和39年4月、花王、森永製菓・乳業、服部時計店、国鉄など有力広告主を担当する第四連絡局局長に就任し、取締役就任まで4年間職務に励み、入社以来20年間ひたすら営業マンとして働き続けた。

四連局長時代は毎年40名をこえる局員全員の誕生日に、男性はネクタイ券を、女性には松屋の商品券をプレゼントするという優しい心遣いをしていた。また、当時最有力得意の某役員が電通嫌いで有名だったため電通幹部は誰一人寄り付こうとしなかった。しかし大竹は怖めず臆せず堂々と面談し、彼の人格識見は先方の高い評価を得た。大竹の葬儀にこの役員が参列したことは関係者全員に驚きを与え、あらためて大竹の優れた人柄に思いをはせたことだった。一方、麻雀好きの得意幹部が訪れているときは、会議室に逃げ込み若手局員に「おいまだいるか」などと茶目っ気たっぷりのところもあった。毎年恒例の秋の局旅行会で、酒乱気味の局員が局長にからんでも、怒らず威張らず堂々と受けて立ち、いささか古い形容だがまさにわれらの大親分といった風格であった。

その四連局長時代、社内報『電通人』の局長紹介「無雑作な八方破れの構え。ベテランの政治記者の感じか。初対面の堅苦しさなど吹きとんで旧知に出会ったような親しい空気。『そのむかし、凡ちゃんというニックネームがついていたな。そのころはやりのマンガ”只野凡児”に似てるってことだった。小学校時代は応援団長で肩で風をきったな。あのころ“ノラクロ”のマンガを見ながら共鳴興奮して大真面目で、よし漫画家になってやるかと発奮したことがある』いたずらっぽくハネた眉毛、人なつっこく動く目、おどけた口もと、往年のワンパクぶりが重なって見えるようなお顔である」。

昭和42年11月、大竹は取締役に就任する。なお、電通社外取締役には兄貞雄と猛雄に多大な影響を与えた松本重治が既に就任していた。
昭和44年の社内報の「新役員の横顔」には電通と縁の深い取引先による紹介が掲載されたが、大竹については彼自身も関係の深い中央公論社の嶋中鵬二社長であった。その内容が、言い得て妙なので一部を原文のまま紹介する。
「電通という会社の成り立ちからいって、古いタイプの電通人が新聞人との共通性を持ち合わせていたのは当然である。(中略)私にはそうした電通人がなつかしく、また好きなタイプでもある。なくなった吉田先代社長にだってそういう面がなかったとはいえまい。ただそれとはまったく別の新しいものを同時に持ち、たえず新しい方向に自分をみがいていかれたのだと思う。

マンガ家の吉田幸夫による似顔絵と局長紹介
マンガ家の吉田幸夫による似顔絵と局長紹介
昭和40年頃の秋の全社運動会。大竹局長を乗せて駕籠かきレース
昭和40年頃の秋の全社運動会。大竹局長を乗せて駕籠かきレース

自分自身の古さに神経質だった吉田さんは新しい世代にたえず心を配っておられた。電通の近代企業への脱皮ということは、ただちに新しいタイプの電通人の出現を意味する。その新しいタイプになり得るのではないか、新しいタイプをつくり得るのではないかと期待された若い世代の代表的人物が大竹猛雄氏であるように私には思えた。 というのは、私が出版屋であり、吉田さんが出版屋好きであったせいもあるかもしれないが、なくなる一ヵ月前の人事のそのちょっと前に、出版連絡局長に大竹さんを任命するということを異常な熱をこめて吉田さんが語ったからである。
大竹さんはアメリカ二世である。といっても赤ん坊の時いただけだから、英語はうまくないが、藤猛ばりの大和魂の持ち主である。なんとなくバタ臭い風貌で、世界中どこの町で会っても悠然としてにこやかだが、内部には烈々たる闘志ひめている。終戦後の混乱期に「民報」などで働いたことがあるだけに、十分に壮士あがりの血もうけついでいる。しかも理論家であり、勉強家でもある。
大竹さんが取締役になられたときいて、私は心から喜んだ。大竹さんのためにも、また新しい電通のためにも、また、なくなった吉田前社長のためにも、そして、日比野社長の静かな姿勢の中に強い意志を感じるのだ。
大竹さんおめでとう。せいぜいおからだをお大事に。白髪がふえて童顔の魅力が失われませんように」。
なお、昭和37年暮、病床の吉田社長を当時の出版連絡局長とともに見舞った局次長の大竹に吉田自身から、出版界は大竹に頼む、と局長の内示があったと言われている。

昭和42年11月取締役就任時の大竹の担務は、プランズレビューボード・万国博室・連絡総務・連絡各局・直轄支局であった。翌年9月、日本生産性本部の訪米情報産業特別調査団に参加した際、GEと初めて接触した。7年後、GEとの合弁により新たな情報通信会社を設立し自らが初代社長になろうとは夢にも思わなかったであろう。
昭和45年社全体のシステム化を目指しシステム開発委員会が発足、常務となった大竹は副委員長及びシステム開発専門委員会委員長を務めることとなった。翌年7月には新設の総合開発室長就任、同年10月新設されたTSS局(商用タイムシェアリング・サービス)も担当する(電通の営業種目にTSSが加わった)。昭和46年11月常務再任とともに、大竹は社長室・電算室・TSS局・総合開発室担当となる(のちに社長室・総合開発室を合併総合計画室となる)。昭和48年11月専務に就任し、昭和50年12月11日設立された株式会社電通国際情報サービス(ISID)の初代社長に就任するまで、総合計画室・電算室総括を担当した(昭和51年1月電通取締役としてISID社長兼任となる)。
このように、当初コンピューターに関わりのなかった大竹が「情報サービス」と言う未知のビジネスの開拓者になってゆくのである。

大竹ははたしてこのような展開を予感していたのだろうか、総合開発室長に就任時以下のような談話を発表している。「情報化時代の進展に伴う70年代の変革は、従来と比較にならぬほど広く深くしかも急激であり(中略)従って総合開発室は今後の社の発展にかかわるところが大で(中略)当面の任務は①CATV、ビデオ・パッケージ、データ通信などの新メディア、②コミュニケーションの変化の様相、③それに伴う広告代理業の機能の変化、④それらの根底にある消費者意識・価値観の変化などに目を向け、新しい課題、プロジェクトを設定し、積極的、総合的、体系的に研究・開発・事業家の推進に当たることになる」。

これまでの人生体験からも、ふだんは物静かだが非常に革新的な一面を持ち合わせている大竹は、総合開発室長の頃から、若手を集め議論するのが好きであった。大竹は中堅若手社員を集め、1975年を目標とする研究会「プロジェクト75」を立ち上げ、旧来の考え方にこだわらず、新しいメディアの誕生の可能性などを議論させた。このメンバーの一人に後にISID副社長となる長谷昭がいた。

大竹は昭和60年6月ISID社長を退任し顧問に就任した。長年苦労をかけた妻をせめて海外旅行に連れて行きたいと考えていた。前述の中森久和が定年退職後に夫婦でヨーロッパ旅行を計画していると聞き、これ幸いと合流を希望する。これがきっかけで以後7年間夫婦そろっての海外旅行が続けられた。途中から大竹の親友でもある吉岡文平夫妻も加わった。集合写真を除いてはスナップ写真の大半をカメラ好きの大竹が撮影したそうである。

吉岡夫妻、中森夫妻との旅行写真
吉岡夫妻、中森夫妻との旅行写真

(文中敬称略)

◎次回は7月11日に掲載します。

プロフィール

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    土橋 赳夫

    1938年生まれ。東京大学文学部美学美術史学科卒。62年電通入社。本社営業部長、関西支社総務局長、常勤監査役の後、電通国際情報サービス常勤監査役を務める。退任後、パナソニックのグループ会社アイ・マーケティングアドバンス株式会社顧問を8年間務めた。

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