電通を創った男たち #98

未知への挑戦・電通国際情報サービス(ISID)を立ち上げた男 大竹猛雄(7)

  • Enbutsu profile
    圓佛 誠孝

電通TSS局発足

 

電通は昭和46(1971)年10月1日、この事業を担当するTSS局を新設し、電算室次長だった柳井朗人を局長に任命した。局長以下、12名の陣容で、電算室に間借りしてのスタートだった。担当役員となった大竹はこの時、電通社報の取材に「社は創業以来つねに『先取りの精神』で新しい仕事を開発しそれに取り組み、今日の地位を築いてきた。本年は創立70周年に当たる。これを機に社は代理業本来の役割である“的確な情報の伝達”という業務領域を拡大、TSSに取り組むことにした」と述べ、さらに日本におけるサービスの遅れは通信回線規制に原因があるが、その規制も緩和の動きがあり将来性は高いと期待を示し「情報化時代の先端をゆく情報産業の中で、社はおおいに力を発揮していきたい」と決意を語っている。TSS局員のほとんどがそれまでにGE情報サービス事業部でトレーニングを受けていた。GEから輸入したMARK-I用GE265コンピューターが築地本社の地下1階に設置された。発足から1カ月、TSS局は電通恒産第二ビル6階に移転した。

TSSという言葉すら専門家以外にはほとんど知られていないこの時期、その営業はまずマーケットの啓蒙からかからねばならなかった。昭和46(1971)年11月、2日間にわたって築地本社13階ホールで「電通TSS発表説明会」が開催され10台の端末機を使ったデモを実施して大きな反響を呼んだ。電通にとっては情報サービスという新規事業に進出するための記念すべきイベントだった。 大竹は来日したGE幹部とともに2日間に6回繰り返した説明会で毎回、冒頭の挨拶を行った。だが600名の来場者を得た発表説明会の好評とは裏腹にその後のTSSの営業は大きな苦戦を強いられた。 

GEの最新の目玉商品である国際ネットワークサービスを通信規制により提供できず、規模のより小さな、既に時代遅れとなったコンピューターを使ったローカルTSSを電話網ではなく不便な専用回線を介して始めざるを得なかったからである。しかし日本で情報通信の新市場TSSを他社に先駆けて開拓しようとすればこれしか道はなかった。不利は承知のうえでパイオニアとしての使命感に燃えての出発だった。

MARK-I発表説明会

TSS局ではMARK-II導入の準備も併行的に進められた。昭和47(1972)年末にはMARK-II技術援助契約が締結され政府の認可もおりていて電話網の開放を待つばかりだった。そんな時、格好のPRの機会が訪れた。同年10月、第1回日米コンピューター会議と展示会が東京平和島の流通センターで開催されたのである。電通・GEはMARK-II紹介の好機ととらえ、実験を名目に参加した。会場のブースの端末機を米国オハイオ州にあるMARK-IIスーパーセンターにつなぎ、情報検索、宇宙船の月面着陸シミュレーションなどのアプリの入力、結果の出力を行うものだった。日本初の国際コンピューターネットワークのデモは来場者の大きな関心を呼びブースの前は人だかりがした。あまりのレスポンスの速さに「本当に米国まで行って帰ってきたのか?」と疑う人も多く説明員を困らせた。インガソル駐日米国大使も熱心に見学した。大竹も会場で端末機に向かい、初めてMARK-IIの操作を体験している。

日米コンピューター会議展示会
端末に向かう大竹

明けて昭和48(1973)年3月、広域時分制の全国導入を受けて郵政省は電話網によるデータ通信の自由化に踏み切った。その翌月、TSS局が申請していた国際特定通信回線の電通・GEによる共同利用、およびその国際特定通信回線と電話網の接続という2件の認可がおりた。また、MARK-II用音響カプラー(電気通信信号を音声信号に変換、またその逆をやる変換器)も同月、電電公社の型式認定を受けていた。いずれも個別認可で第1号だった。

同年4月、MARK-IIの提供が始まった。必然的にTSS局の活動はMARK-IIの営業に力点が移されていった。見込み顧客の対象を各業界トップ企業と銀行と定め、精力的に新規開拓のための営業活動を行った。 都市銀行はオンライン処理などをすでに実施し先進的なコンピューターユーザーでTSSへの理解も早いと考えてのことだった。TSS局開設以来優秀な人材の中途採用を積極的に実施しこの頃には局員も30名近くまで増強されていた。

TSS局のビジネスモデルはMARK-IIを顧客がいかに多く使うかにその成否がかかっていた。MARK-II上で提供されるアプリソフトの利用に加えてこの頃にはMARK-IIをインフラとして顧客の業務システムを受託開発し運用するという新しい営業のやり方が出てきた。顧客システムの提案、開発、運用を一手に受託する営業のやり方は売上利益への貢献も大きく電通TSSを特徴付ける業務領域であった。とくに国際間業務のシステム化には顧客がインフラを整備する必要がなくソフトの開発のみで可能となることから銀行や自動車などの輸出企業に採用されるようになっていた。これを可能にするのはMARK-IIというインフラに加え、社員の独創的提案力、技術力、ノウハウで、大竹は機会あるごとにその大切さを強調し自己研鑽を促した。大手ハードウエアベンダーの下請け的業務に甘んじ与えられた仕様書どおりにプログラムを作るのみだった当時の日本の多くの情報サービス企業には見られないISID独特のアプローチだった。他社にはないGEの国際コンピューターネットワークをインフラとして持っていたことから、必然的な顧客対応だっただろう。ISIDは最初から元請企業、つまりプライムコントラクターだった。

(文中敬称略)

◎次回は7月19日に掲載します。

プロフィール

  • Enbutsu profile
    圓佛 誠孝

    1935年福岡県生。米国ダートマス大学工科大学院機械科卒。新三菱重工業、三井三池製作所を経て71年電通入社、TSS局勤務。75年ISID設立に伴い出向、営業技術部長、CAE事業部長など歴任、82年取締役、90年専務取締役、91年ISIDへ転籍、98年顧問、2002年退社。85年より学校法人大牟田学園理事長(現任)

バックナンバー

関連記事

続きを見る
ページ先頭へ