電通を創った男たち #99

未知への挑戦・電通国際情報サービス(ISID)を立ち上げた男 大竹猛雄(8)

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    圓佛 誠孝

米GEと合弁会社設立、社長就任

 

昭和49(1974)年11月、TSS局はサービスをMARK-IIIに格上げした。高い信頼性確保のために複数のコンピューターと大容量記憶装置をたすき掛けにつなぐクラスターテクノロジーを採用したスーパーセンターと日本、北米、欧州、オーストラリアの19カ国を結ぶ国際ネットワークで形成されていた。従来のTSSに大量データの一括処理(リモートバッチ)機能も付加された地球規模の総合的な遠隔情報処理サービスの始まりであった。まさに今日流行りのクラウドサービスそのものであり、その意味で電通TSSは「元祖クラウドサービス」と言えるだろう。営業とシステム開発の試行錯誤を繰り返しながらもMARK-IIIの売上は急伸長しGEのTSS提供国の中では最高の伸びを示していた。昭和50(1975)年1月、国際連絡局部長の一力健がTSS局次長として着任した。大竹のたっての要請によるものだった。後に大竹の後を継ぎISID二代社長となる。この時期、局員は大阪、名古屋を含め66名になっていた。

この年春ごろから懸案だった合弁会社設立の話が双方から持ち上がり予備的な話し合いをしていた。大竹は昭和50(1975)年2月GEを訪問、GE本社副社長兼情報サービス事業部長ジョージ・フィーニー博士他関係者と会談しTSS事業の将来性や合弁の諸条件につき話し合った。帰国後の4月、常勤役員会でGE案に対する電通としての対処方針と事業目論見を説明し承認を得た。いよいよ詰めの交渉が開始され6月後半、2日間にわたり箱根ホテルに泊まり込み最終会談が精力的に行われた。出資比率と社名をどうするかが最も緊迫した議題だった。出資比率については電通66%、GE34%で決着を見た。社名についても「電通」の社名をどう入れるかで双方の考えに隔たりがあったが、和文では頭に、英文では後ろにという案で、「電通国際情報サービス」「Information Services International – Dentsu」に決まった。

箱根会談を境に合弁会社設立への動きが加速した。しかし厄介な問題が起こった。春ごろから合弁会社が設立されTSS局員全員が出向するという噂が社内で流れ始め局員の間に不安が広がっていた。「電通だから途中入社したのだ」という気分の強い一部局員の出向反対の意思表示に電通労働組合も動きだし深刻な事態となった。電通としてはGEとの交渉中のことで守秘義務があって経緯を社員に説明できないという事情もあり、状況悪化の一因となった。6月には労組が合弁会社設立撤回、出向断固反対の強固な方針を掲げTSS局内では96時間のストライキが行われた。社内のいたるところにビラが貼られ本社の正面玄関に赤旗が立ち並ぶという前代未聞の事態となった。

事態を憂慮した大竹たち幹部の動きは速かった。直ちにGEの合意を得、正式に合弁会社の説明をするとともに、出向期間を3年とし、その後本人の意向で出向延長、電通に復帰、または新会社に移籍の選択肢があることも説明した。大竹はその後、局員一人一人と個別に面談し、新会社への出向を了承し事業継続に協力するよう説得した。

同年7月、初めてTSS局の局会に出た大竹は「現状はノーマルな状況ではなく、その影響は大である。話し合いによりこの状況を解消したい。自分は電通の長期計画に携わる中で新たな領域拡大の必要性を感じいろいろ検討してきたが実行に移したものはTSSのみである。開始以来、苦労が多かったが、昨年頃から情報産業の中ではこれこそ電通がやるにふさわしいと判断するようになった。電通がTSSをやる以上もっともいい形でやるべきと考えGEとの合弁会社設立を決断した。これから5年、10年先にやってよかったというものにしたいと思う。これまでは局長任せだったがこれからは自分が取り仕切る。電通の傍系会社は多いが新会社を同次元で考えないでほしい。TSSはこれからの産業だ。新しい産業を自分たちが作るという開拓者としての信念と気概をもって欲しい。一日も早く出向を了解して自分と一緒にやって行く決意をしてくれるようお願いする。」と局員に訴えている。大竹の誠実な人柄とこうした努力の甲斐あって12月には労使間で出向協定が結ばれこの問題も決着を見た。 

昭和50(1975)年8月、新会社設立事務所が開設され、岡田良作海外事業室海外業務部長以下4名のスタッフで作業を開始していた。同年12月11日には新会社の登記を済ませここに「株式会社電通国際情報サービス(以後ISID)」が誕生した。

調印する大竹社長とフィーニーGE副社長

資本金4億5000万円、箱根会談で合意した出資比率と社名が確定しTSS局の業務と資産をそのまま引き継いだ。役員は大竹社長以下7名で電通側から柳井、一力、岡田の3名、GE側からセージほか2名、監査役に電通経理局長の横山一三が就任した。社員数79名、うち電通からの出向が72名。通信回線の名義変更に必要な郵政省の認可が想定より遅れやっと年末、仕事納めの日におりてISIDの開業準備が整った。

役員会

最初の仕事始式を兼ねた創立記念式典を電通恒産第2ビル1階ホールで嶋田喜五郎電通副社長を来賓に迎え開催した。業務も、人員も、事務所も変わることがなかったので、多くの社員にとって例年の仕事始式のようだったが、いよいよこれからが本番だ、と気持ちを引き締めていた。

翌年4月、実質的な初の事業年度の初日、大竹は「これからいよいよ情報通信の世界が広がる。その魁として開拓者精神を発揮しよう。全社員のレベルアップを心がけたい。節度ある明るい職場にしよう。問題意識を持ち問題提起を大いにすべし」と語り、締めくくりに「新会社の置かれた状況は吉田秀雄電通四代社長がかの『鬼十則』を示された頃の電通に似ている。『責任三ヶ条』とともに心せよ」と訓示し新会社の本質がサービス業であることを再確認し社員の自覚と奮起を促した。「情報通信」という言葉ができたばかりのころだった 。

(文中敬称略)

◎次回は7月25日に掲載します。

プロフィール

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    圓佛 誠孝

    1935年福岡県生。米国ダートマス大学工科大学院機械科卒。新三菱重工業、三井三池製作所を経て71年電通入社、TSS局勤務。75年ISID設立に伴い出向、営業技術部長、CAE事業部長など歴任、82年取締役、90年専務取締役、91年ISIDへ転籍、98年顧問、2002年退社。85年より学校法人大牟田学園理事長(現任)

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