電通を創った男たち #100

未知への挑戦・電通国際情報サービス(ISID)を立ち上げた男 大竹猛雄(9)

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    圓佛 誠孝

ISID経営

大株主でもあったGEが新会社経営について強く勧告し、協力したのが経営計画の策定だった。5年先までの計画を具体的に述べたもので、毎年1年伸ばしにしていくローリング方式とした。日英両語で書かれた。冒頭に会社の使命、基本理念を「我が社はコンピューター・コミュニケーションを基調とした情報サービスを提供することによって高成長、高収益の主導的企業を目指すとともに、日本のみならず国際ビジネス社会の高度情報化に大きく寄与する」と書いた。興味深いのは「GEの国際ネットワークサービスの提供」という定款の定めより広範な目的をかかげていて、この事業にかける大竹の気概を感じさせる表現であることだ。これを裏打ちするように大竹は「ISID創業の源泉は開拓者精神であり、その支柱は創造と革新の発揮にある」と述べている。

大竹がISID社長だった最初の10年は文字通り基礎固めの時期であった。試行錯誤を繰り返し、失敗に学びつつ、やがて収益を支える2つの事業分野を立ち上げ確立したことが大きい成果だった。

ひとつは金融業の国際業務アプリだった。MARK-II時代にいち早く海外資金の調達、運用を支援するアプリを開発運用した某銀行と共同で外貨資金管理システムを開発、これをパッケージ化して販売した。MARK-III上で動き優れた機能を持つこのシステムがISID創業と前後して始まった金融業国際化のタイミングにもマッチして、銀行間の評判となり導入が相次いだ。金融業国際化に対応するネットワークアプリを早い段階から開発してきた実績とノウハウはその後都銀全行、興長銀へのサービス提供へと結びついていき、収益の主柱となった。

もうひとつは、製造業への対応だった。国際間ネットワークアプリに加え、研究開発、設計分野のコンピューター支援にも着目しMARK-III第三者ソフトのSDRC社のCAEを積極的に売り出した。CAEは開発設計段階で製品全体のモデルを構築し実使用条件下でシミュレーションを行い強度や性能を確認しながら仕様を決めていくというやりかたでSDRC社はそのソフトをいち早く開発していた。GEはSDRC社と合弁会社を設立しCAEの拡販推進を図ったが、売上成長速度が期待はずれだとしてやがて撤退した。しかし大竹はGEより長期的な観点でこの事業に着手しており、顧客の信義にも関わるからと、その後もCAE事業を継続した。大竹はSDRC社会長レモン博士と直接交渉しソフトのライセンス販売権を取得していた。契約上は非独占だったがレモンが大竹に約束したとおり実質的には独占だった。レモンは後年、大竹の社葬参列のためだけに来日している。二人の信頼関係の深さが伺える出来事だ。その後ISIDではCAE要員体制を整え本格的に製造業対応をしていき、その他の製造業アプリとも相まって金融業に次ぐ第2の収益源として育てていった。

CAEセンター開所式

大竹はややバタ臭い威厳のある容貌にもとレスリング選手の堂々たる体躯と寡黙さで若手社員の第一印象は「怖い人」だったが実はやさしく包容力のある人だった。存在感の大きい人でシステム開発やアプリ事業化に失敗するピンチにも泰然自若として周囲を安心させるようなところがあった。成田社長は大竹のことを「実績とお人柄で信頼感があった。やさしさ、慈愛もあった。それでいて非常に物事を大きく考え、複眼的に幅広い視野の人だった。それに実行力があった。酒も強かった」と語っている。

大竹社長

ISID三代社長で営業一筋の瀧浪寿太郎は大竹の薫陶を強く受けた一人だった。「宮城県沖地震で被災した客先のお見舞いに発生翌日一緒に行き災害現場をよく見た上で真心込めて見舞いを述べる真摯な様子に感動した。営業では現場主義の大切さを教わった。大竹さんの醸し出す背中の大きさがまさに親父のように思われたものです」と述懐している。

大竹は気軽にトップセールスをやった。現在ISID取締役副社長執行役員で定期採用第一期生だった福山章弘は「大竹社長のお供をして某大手製薬会社社長へあいさつに行ったとき、大竹さんはほとんど自分からはしゃべらないにも関わらずちゃんと会話が成立し和気藹々の雰囲気となる、なにか不思議な印象だった。聞き上手とはこのような人かと思った。お人柄がにじみ出て相手の共感を呼ぶ感じだった」と語っている。同じく取締役専務執行役員の上原伸夫は「某生命保険会社の役員がゴルフ好きだったが、メンバーだった大竹さんに頼んで名門、鷹之台カンツリー倶楽部へ招待してもらったことがある。大竹さんの人を逸らさない自然体での応対にとても喜ばれその後の顧客関係で大いに助かった」と思い出す。

大竹は情報通信サービスというものは結局「人」に尽きると認識していた。そのため優秀な人材の中途採用や新入社員の厳選採用を徹底し、入社後の教育制度も整備し、海外の関係先での研修や海外視察なども実施した。そして社員には常に自己研鑽を促し、先駆者としての気概を持ち創造性を発揮することを求め続けた。上原がよく覚えている大竹の言葉は「打てば響く職場」「燃えたぎる眼」「溢れるばかりのサービス精神」などで、創業間もないころ、社内報などで社員に伝えたもの。これはその後もISIDの企業文化を表す表現として大切にされている。

大竹のリーダーシップの下全社一丸となった努力によって、第10期、昭和60(1985)年3月期の売上高は70億円弱、社員数222名となっていた。新会社の離陸はひとまず成功というところだった。しかし前年から始まったMARK-III売り上げの鈍化がこの年も続いた。昭和58(1983)年の年頭号で米国『TIME』誌は恒例の「マン・オブ・ザ・イヤー」にパソコンを選んだ。人間以外の登場は初めてのことだった。パソコンの出現と高性能化、電気通信の全面的自由化が進み情報通信業界にも変革の波が押し寄せていた。

(文中敬称略)

◎次回は7月26日に掲載します。

プロフィール

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    圓佛 誠孝

    1935年福岡県生。米国ダートマス大学工科大学院機械科卒。新三菱重工業、三井三池製作所を経て71年電通入社、TSS局勤務。75年ISID設立に伴い出向、営業技術部長、CAE事業部長など歴任、82年取締役、90年専務取締役、91年ISIDへ転籍、98年顧問、2002年退社。85年より学校法人大牟田学園理事長(現任)

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