電通を創った男たち #101

未知への挑戦・電通国際情報サービス(ISID)を立ち上げた男 大竹猛雄(10)

  • Enbutsu profile
    圓佛 誠孝

竹さん、さようなら

大竹は昭和60(1985)年勇退し、常務だった一力が社長に就任した。その時大竹は「今はISIDという会社は電通から見れば異業種で、碁盤の捨石のようにポツンと置いてあるけれども自分は将来これが電通と非常に協力関係ができるような会社に成長すると確信している」と言っている。その後、一力は第二の創業とも言えるビジネスモデルの転換を行いMARK-IIIを通信インフラとして使い顧客に総合的なシステムインテグレーションサービスを提供する戦略をとり成功する。そして大竹退任後30年のISIDの成長経緯は大竹の言ったことが文字通り実現したことを示している。

大竹退任のその年、電気通信事業法が施行され通信の全面的な自由化が実現した。TSS事業参入以来の念願が15年を経てやっと叶った。この間、電通TSSとISIDは一貫して自由化要求の先頭に立ち続け、大竹自身、初の業界団体、日本情報通信振興協会の設立に尽力し副会長を勤めた。大竹は平成元(1989)年、情報通信サービス発展への貢献により郵政大臣の個人表彰を受けた。

大竹は社長退任後も顧問、相談役に就任してISIDの経営を間接的に支え続けた。平成4(1992)年まで常勤だったが我慢強く無理をするところがあり、風邪をひいて少々熱があるくらいでは休まず、周りが心配した。

ISID創立後の数年間、社長懇談会と称して若手社員との昼食会を定期的に開いていた。福山は「社長は自分ではあまり喋らず、社員の話に耳を傾け、人の話を丁寧に聴く人だった」と振り返る。誕生日に呼ばれて社長室へ行くと「おめでとう。本でも読んでくれ」と図書券をプレゼントされたことをよく覚えている。電通の専務だったと聞いて、よくこんな小さな会社へこられたものだと思った、という。上原も「社長懇談会」と「図書券」は印象に残っている。女子社員への誕生日プレゼントは特製のチョコレートケーキだった。海外出張すると秘書室へのお土産を忘れないこまかい気配りの人でもあった。現役、顧問、相談役時代を通じ役員フロアで「秘書に一番もてた人だった」という元秘書の猪狩昌子の言葉もある。

顧問のある時期、銀座ロータリークラブの会報委員長を勤めていたころ、自分でワープロ・一太郎を使い原稿を執筆していた。当時秘書の安居院秀子はある日そのマニュアルの各ページの角がボロボロになるまで使い込まれているのをみて大竹が独学でそのソフトを使っていたことを知り驚いたという。

顧問になってから交詢社で油彩画を習っていて自作の絵を会社の自室に飾るようになった。新しい絵を持ち込んで説明するときの楽しげな表情が忘れられないと安居院。大竹の顧問1年目、ISIDの社内報が新しくなったが、その創刊号の表紙を飾ったのが長崎丸山の史跡料亭「花月」の絵だった。

社内報表紙絵

総務部長だった小野忠明は非常勤となった大竹にせがんで作品の1枚をもらっている。
ISID本社ビル最上階、眼下に開東閣の緑が広がる特別応接室がある。一方の壁に日比野社長の筆になる「健根信」の額がかかる。大竹が社長室に掛けていたものだ。反対側に20号の油絵。ヨーロッパのどこかのお城のものだが大らかで温かみのある画風で大竹の人柄が偲ばれる絵だ。吉岡と中森とともに夫婦揃って楽しんだ海外旅行の風景写真が題材になることが多かった。

絵1
絵2

平成10(1998)年6月6日早朝、大竹は肺気腫のため卒然と逝去した。息苦しさを訴えて倒れ救急車で運ばれる途中での臨終で、人に迷惑をかけない主義の大竹らしい最後だった。享年78歳。ISIDは一力会長を葬儀委員長として築地本願寺で社葬を行った。 一力は弔辞で「…突然の訃報に接した時はまさに晴天の霹靂の思いでにわかには信じられませんでした。…大竹さん、あなたにもう二度とお目にかかれないと思うとまことに痛恨の極みであります。…大竹さんは名実ともに社の生みの親であり育ての親であります。創立20周年の記念式典でのご挨拶に大竹さんは社の現在があるのは基本的に二つの理由によることを指摘されました。その一つは電通・GEの両株主の長期に亙る友好的協力関係であり、もう一つは未踏の分野に開拓の炎を燃やすチャレンジ精神であります。…今後も大竹さんのご遺志を体し全社一丸となって社業発展に邁進することをお誓い申し上げます」と述べた。

創立20周年記念パーティー

盟友で電通社友会長だった吉岡も弔辞を読んだ。「竹さん」、と呼び掛け、「あなたの先見の明と命懸けで新事業を育て上げた努力に深甚の敬意を表します。…入社当時、夜な夜な新橋駅周辺の飲み屋街であなたは下戸の私に酒呑みの訓練をしてくれましたね。麻雀もよくやりましたね。松本清張さんもときどき参加されました。…リタイヤしてから3年続けて一緒に海外旅行に行きゴルフを共にしたのも懐かしい思い出です。お互い女房孝行ができました」と振り返り、「50年以上にわたり竹さんという最高の友人とつきあいできたことを何よりもうれしく思っていると申し上げてお別れします」と結んだ。東海大学教授になっていた唐津も「…今では情報化とかマルチメディアと言った言葉は当たり前となりましたが、文字通り日本におけるその先達として余人をもって換えがたい大きな役割を務められた大兄を突如として失いましたことは私にとって言葉では言い尽くせない痛切の極みであります。…」と涙ながらに弔辞を捧げた。

現役を退いて13年という歳月が流れていたが、社外からの参列者は400人に及び、その多彩な顔ぶれは大竹の付き合いの広さと深さ、そして大竹の偉大さをあらためて感じさせた。社葬の模様はISIDによりインターネットを通じて全世界へ同時中継された。  

〈 完 〉

(文中敬称略)

プロフィール

  • Enbutsu profile
    圓佛 誠孝

    1935年福岡県生。米国ダートマス大学工科大学院機械科卒。新三菱重工業、三井三池製作所を経て71年電通入社、TSS局勤務。75年ISID設立に伴い出向、営業技術部長、CAE事業部長など歴任、82年取締役、90年専務取締役、91年ISIDへ転籍、98年顧問、2002年退社。85年より学校法人大牟田学園理事長(現任)

バックナンバー

関連記事

続きを見る
ページ先頭へ