電通を創った男たち #102

電通営業マンの代表
根本軍四郎の生涯(1)

  • Matsuura chosya
    松浦 一夫

はじめに

根本軍四郎は昭和35(1960)年4月、電通に入社した。当時の営業局中央部(現在の新聞局中央部)に配属となり、昭和42年には第八連絡局(現営業局)に異動、その後各連絡局で営業マンとして数々の重要なクライアントを担当し、昭和50年には第三連絡局連絡部長となり、連絡局次長、局長を経て平成3年取締役に選任され2年後常務取締役になったが、病をえて平成10年3月2日、急逝した。享年61歳、あまりにも早い死であった。健康でありさえすれば必ずやその後の電通を背負ったであろう逸材だっただけに、その死は惜しんでも惜しみたりないものがある。 卓越した営業マンであった彼の生い立ち、電通に残した足跡を改めてここにたどってみたいと思う。

卓越した営業マンだった根本軍四郎

生い立ち〈1〉 誕生と父 根本 博

根本軍四郎は昭和12年1月27日、北海道旭川で生まれた。四男二女の末っ子であった。根本家の先祖は村上源氏の一族で、根本家の初代である照林和尚は後醍醐天皇に仕える武士であったが、後醍醐天皇亡き後、永住の地として福島県須賀川市に近い仁井田村にその居をかまえた。比叡山の根本中堂から根本をとって姓とし名前を照林和尚と名乗ったとのことである。軍四郎の父、根本博は明治24(1891)年に同地で生まれ仙台の陸軍幼年学校、その後陸軍士官学校、陸軍大学を卒業し職業軍人としての道を歩み、陸軍中将にまで昇進している。軍四郎が生まれた年には旭川歩兵第二十七連隊長であった。
父博は数々の功績とエピソードの持ち主であるが、その人柄を知る上で、いくつかの逸話を小松茂朗著『戦略将軍根本博―ある軍司令官の深謀』(昭和62年光人社刊)から引用させていただき紹介したい。

大正11(1922)年、陸軍大学を卒業し陸軍大尉として旭川の第二十七連隊第一中隊長として赴任した時、中隊全員を前にその第一声として「中隊は軍隊における家庭であり、自分は諸君の父親である。明るい家庭は繁栄する、わが中隊も一体となり大きな和をもって隠しごとのない澄んだ心でご奉公するようにしたい」と訓示した。また当時の軍隊では日常茶飯事のごとくに行われていた古参兵の新兵に対する私的制裁については断固これを禁じている。悪しき伝統を排し、新しい軍隊のイメージを創りだそうとした根本博のような軍人は当時希有な存在であったに違いない。

軍四郎の父、根本博陸軍中将

昭和9(1934)年には陸軍大佐に進級し陸軍新聞班長に就任している。当時は、国家権力による言論統制が激しさを増していたが、根本大佐の人柄のためか言論統制の対象であった文士や報道関係者とも交流があった。特に直木三十五、久米正雄、菊池寛らとの親交が深く、卯歳の文化人が「卯歳会」をつくり根本大佐もメンバーで親睦をはかっていた。

昭和11年2月25日の夜も赤坂の料亭で会が催され大の酒好きであった根本大佐は大いに泥酔し、翌朝は大幅に出勤時間が遅れてしまった。皇道派の青年将校を中心とした反乱「二・二六事件」が起きたその朝、出勤してくる根本大佐を糾弾し、場合によっては危害を加えることも辞せずと待ち伏せしていた青年将校たちは、昼近くなっても現われない根本大佐を「新聞班長は出張か」と思いこみ引き上げて行った。根本大佐はこよなく愛した酒のおかげで命を救われたのである。軍人としての生涯で数々のピンチに見舞われながら冷静沈着で適格な判断力、その人柄で危機を乗り越えたのであろう。

二・二六事件後、昭和12年、中国に派遣され終戦に至るまで現地司令部の参謀長、司令官を務め中国関係のスペシャリストといわれた。昭和19年、駐蒙軍司令官となりやがて昭和20年8月15日終戦を迎える。敗戦の中、ソ連軍、八路軍の執拗な追撃を退け、数々の困難を乗り越え最高責任者として4万人の居留日本人を無事祖国へ帰還させ、35万将兵の復員を見とどけた後、根本は昭和21年、最後の船で帰国する。

昭和20年12月、根本は蒋介石と会見しているが、その時敗軍の将である根本に対し、蒋介石は温かい態度で接してくれ心から励ましの言葉をかけてくれた。そして在留邦人、将兵の日本帰還に対しあらゆる協力を惜しまなかった(参考資料:内田隆将著『この命、義に捧ぐ』)。このことは深い感謝の気持ちとして根本の心に残り、その恩義を決して忘れることはなかった。この時受けた恩義に報いるため、昭和24年、中共軍の攻撃を受け台湾で危機にさらされていた蒋介石を救わんと国禁を犯してまで台湾に密航。金門島における古寧頭の戦いを指揮し、上陸してきた中共軍を撃破し同島を死守したエピソードはあまりにも有名である。

この時、だまって夫を台湾に送り出した軍四郎の母、錫も実に立派である。典型的な軍人の妻であったのだろう。軍四郎の長男俊太郎に祖母錫の印象を聞くと、いつも朝早く起き、きちんと和服に身を整え仏間に泰然と座していたとのことである(根本博は昭和41年死去、享年74歳)。

俊太郎の話によると軍四郎は父博のことはほとんど語らなかったそうであるが「俺は俺、オヤジとはイコールではない」との思いがあったのだろうか。しかし博の持っていた数々の優れた資質は軍四郎にも引継がれ電通人としての生涯に充分いかされていたと思われるし、彼も父の偉大さを常に認識していたにちがいない。

(文中敬称略)

◎次回は9月13日に掲載します。

 

プロフィール

  • Matsuura chosya
    松浦 一夫

    1934年生。上智大学経済学部卒。59年9月電通入社、第3連絡局連絡部長、銀座第2連絡局次長、入船第3営業局長、アド電通東京社長などを務め、2006年退職。

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