電通を創った男たち #103

電通営業マンの代表
根本軍四郎の生涯(2)

  • Matsuura chosya
    松浦 一夫

生い立ち〈2〉 慶応時代

軍四郎は幼少時やや落ちつきのない子供でそれを心配した母の錫が「生長の家」の谷口雅春が主宰する修養道場に通わせた。そこで5年間修養し「心の持ち方で、そのひとを取り巻くすべての環境が変わる」ことを学び性格がガラリと一変した。小学生時代は疎開先の福島で過ごしているが、終戦後は小田急線の鶴川にあった実家に戻っている。幼少期小柄であった彼も高校時代にはクラスメイトよりも首一つ抜け出した大柄でどっしりとした体格になっていた。高校を卒業、一浪の後昭和31(1956)年、慶應義塾大学法学部に入学を果たした。高校卒業時、父から防衛大学受験をすすめられ、それがいやで最後まで逃げまわったとの話もあるが種々情報集めを試みるも確たる事実は分らず未だにナゾである。

母のひざに抱かれた1歳のころの軍四郎。昭和13年11月撮影

大学時代の軍四郎について慶応時代からの大親友で、軍四郎が亡くなるまで深い親交が続いた上田正名に話を聞いた。上田は慶大のマンドリン倶楽部のメンバーで、演奏会ではマンドリン演奏に加えて司会までやらされていたが、しゃべる方は緊張してしまいどうもうまくいかず誰か司会の出来そうなしゃべりのうまい人間を探していた。そこで思いついたのが入学以来の親友であった軍四郎である。歳に似合わず落ちついていて度胸も良い。よし、あいつに頼んでやろうと軍四郎をくどきおとした。ところが問題がひとつ生じた。マンドリン倶楽部に入るからには当然マンドリンの演奏が出来なければならない。しかし軍四郎はマンドリンのマの字も弾けない。そこで上田は当時マンドリン倶楽部の指揮者であった服部正に事情を説明し、なんとか了解をとりつけた。ここに慶大マンドリン倶楽部創部以来、初めて楽器を弾かない部員が誕生したのである。

晴れて慶大マンドリン倶楽部の部員に。前列右端が軍四郎

軍四郎の司会者としての力量は、まさにプロはだしで、演奏会にゲストとして出演する大物タレント(黒柳徹子、三國一朗ら)や歌番のダーク・ダックスなどとの舞台上でのやりとりも実に堂に入ったもので見事な司会振りだったようである。このころから相手をいつの間にか自分のペースに引き込んでしまう独特の話術を持っていたのだろう。また、慶大のマンドリン倶楽部は300人にならんとする大所帯であったが、裏方として部員の世話から演奏旅行の手配、各交渉事に至るまですべてをこなしていたらしい。遊びの方も酒に、麻雀にと大いに学生生活を謳歌し結構女性にも、もてたらしい。「学生時代から結構顔が広く、若いのに落ち着きがあり、ちょっとのことではものに動ぜず、そのくせ相手をそらさぬユーモアと温かい人柄で親分肌、そんな人格が電通入社後も十分生かされたのでは」と上田は語っている。学業もなかなか優秀で32単位中、Aを29とっているが、これには彼独自のコツがあったらしく常に創意工夫をこらしていたようだ。後年、筆者(松浦)と酒を飲みながらそのことが話題になった時、軍四郎は「いやー、これにはコツがあってさ、各課目の良く出来る、試験に強そうなやつを何人か探し出してネ、そいつらによく出そうな問題と模範解答を聞くわけョ。それを分析してデータ化するんだ。まず大きく山をはずすことはなかったなぁ。まあマーケティングとクリエーティビティーの基本だネ」と二ヤリとしながら語ったことがある。

就職試験に関しても面白いエピソードがある。上田によると軍四郎の就職第一希望先は電通ではなくNHKでアナウンサーを目指していたらしい。しかし残念ながらNHKの職員採用試験には受からず電通に入社することになった。もしNHK受験に合格していたら魅力ある低音のヴォイスと独特の話術をもった一流のアナウンサーかキャスターになっていたに違いない。結果的に電通はNHKのおかげで貴重な人材を得たことになる。

(文中敬称略)

◎次回は9月19日に掲載します。

 

プロフィール

  • Matsuura chosya
    松浦 一夫

    1934年生。上智大学経済学部卒。59年9月電通入社、第3連絡局連絡部長、銀座第2連絡局次長、入船第3営業局長、アド電通東京社長などを務め、2006年退職。

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