電通を創った男たち #107

電通営業マンの代表
根本軍四郎の生涯(6)

  • Matsuura chosya
    松浦 一夫

電通時代〈4〉 根本局の二大イベント

根本局に一度席を置いた者には忘れられない局のイベントが二つある。根本食堂と局の旅行会である。
「根本食堂」は毎年、新年仕事始めの日に軍四郎の自宅で開かれた。等々力の自宅に昼頃から喜久子夫人や長女の裕美、親戚のお嬢さんたちがすべて手作りの料理を用意して食堂をオープン、局員たちが三々五々現れるのを待っていてくれる。普通は上司ましてや局長の自宅ともなると若い局員たちには敷居が高く、あまり好んでは行きたくないものだが、根本食堂は違った。局次長から部長、局員に至るまで入れ替り立ち替わり押しかけ、ラッシュ時にはさして広くもない根本邸は、応接間からキッチンまで足の踏み場もない状態で玄関ははきものの洪水。自分の靴を間違えて帰宅する局員が数知れずいた。

主人公の軍四郎があいさつまわりを終え、夕方帰宅するころには皆勝手に高級なウィスキー、ブランデーなどのボトルを開けて酔っぱらっていた。「これ、みんな結構高い酒なんだよ、味わかって飲んでるのかなあ、まあしゃあないか」と軍四郎も苦笑していた。和気藹々、上下のへだてもなく談論風発、大いに食し、大いに飲んだ。若い連中の食欲旺盛な注文にも喜久子夫人たち女性陣は少しも嫌な顔をせず次から次へと美味しい手料理を出してくれた。

毎年大盛況の根本食堂

その準備と対応は大変なものであったろう。今考えても頭の下がる思いがする。軍四郎はホスト役として局員と膝を交え飲みかつ語り合いサービスに務めていた。お開きになるのは常に深夜近くで、皆が引き上げた後の家は大変な有様だったに違いない。軍四郎もさすがに女性陣には迷惑と苦労をかけたとの思いがあったのだろう。長女の裕美に後刻聞いたところによると、大きな体を小さくして皿洗いや後片付けを手伝っていたそうである。その姿は想像するだに微笑ましい。

「局の旅行会」は年1回、晩秋の金曜、土曜に1泊2日の日程で行われた。原則として全員参加、近郷の温泉宿に繰り出した。局全体で、しかも毎年恒例化した旅行会が実施された例は電通でも珍しかったと思う。当初は若手局員や女子社員たちは敬遠気味であまり乗り気ではなかったが、なんとか実現にこぎつけた。金曜日の仕事をなるべく早めに片付け、順次現地に集合、全員浴衣(女性はジャージ上下に浴衣をはおる)に着替え大広間に集合、幹事役の部長からキュー出しがあり、肩書に関係なく無礼講の大宴会が開始される。翌日のゴルフと麻雀は厳禁、とにかく飲んで食べて底抜けに明るく騒ぐ。100名になんなんとする会のエネルギーは凄いものがあった。しかし、社員旅行にありがちな悪酔いしてからむ者が出るとか、生々しい争い事が起きることは全くなかった。軍四郎も大勢の局員たちと酒を酌み交わし愉快そうに語り合いこのイベントを楽しんでいた。はじめは乗り気ではなかった女子社員や若手局員たちも段々と雰囲気に慣れ、積極的に参加するようになった。ただ、あまりのパワーと飲みっぷりに、世話役であった総務課長さんはいろいろと心配し気疲れしたのではと同情している。

この二大イベントが年中行事として毎年行われ、局員が多数参加して楽しむことが出来たのは、ひとえに軍四郎の人柄と、彼が風通しの良い明るい局づくりに励んだたまものである。

◆   ◆   ◆   ◆   ◆

平成2(1991)年、取締役に選任された軍四郎の担務はマーケティング局とクリエーティブ局であった。「俺は、この分野は全く素人だから、また一から勉強だヨ」と軍四郎は言っていたが、長い営業経験から営業局にとって両局が、いかに必要不可欠なものであるかを充分認識していた。軍四郎は、より営業に直結し、充分に営業をサポートし得るマーケティング局・クリエーティブ局づくりに力を注いだ。営業との橋渡しも積極的に行った。「俺の出来るのは、それ位のもんだヨ、あとは現場にまかせるのが一番さ」最も肝心なところはしっかり自ら根回しし、あとは現場にまかせる、その考え方は役員になっても終始一貫変わることはなかった。

平成5年常務取締役・営業統括となったが、これからという時に健康を害し、充分な活躍が出来なかったことは本人が一番無念であったに違いない。その心中は察してもあまりあるものがある。

(文中敬称略)

◎次回は10月3日に掲載します。

プロフィール

  • Matsuura chosya
    松浦 一夫

    1934年生。上智大学経済学部卒。59年9月電通入社、第3連絡局連絡部長、銀座第2連絡局次長、入船第3営業局長、アド電通東京社長などを務め、2006年退職。

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