電通を創った男たち #108

電通営業マンの代表
根本軍四郎の生涯(7)

  • Matsuura chosya
    松浦 一夫

人間 根本軍四郎

喜久子夫人とのこと

長男俊太郎、長女裕美に聞いても、また前出の親友上田にヒアリングしてみても軍四郎と喜久子夫人は本当に仲睦まじい夫婦であったようである。二人の出会いは軍四郎が慶大時代のこと、柄に似合わぬロマンティックな付き合いだったそうで、ハンカチにフランス語で「愛している」と記し彼女に手渡したこともあったらしい(軍四郎のフランス語はあまり聞いたことがない、恐らく覚えたのは、ジュ・テームだけか)。

ハワイ旅行を楽しむ根本夫妻

喜久子夫人はすべてにわたり最後まで軍四郎を支え続けた。根本食堂など彼女の協力がなかったら決して成立しなかったであろう。しかしながら家庭内の肝心要は見事なカジとりで彼女が仕切り、根本家におけるイニシアティブはしっかり喜久子夫人がにぎっていたようだ。彼女が立派に家庭を守ってくれたからこそ軍四郎は後顧の憂いなく仕事に専心し活躍することが出来たのであろう。俊太郎と裕美も、父と母が大きな喧嘩をしていたところを見たことがないし、おさえるところをバッチリおさえていたのは母だったと言っている。その喜久子夫人も軍四郎のあとを追うように平成12(2000)年4月12日に亡くなった(享年60歳)。さびしくなった軍四郎が呼んだのかもしれない。正にベスト・カップル賞に値するおしどり夫婦であった。


狂がつく巨人ファン

とにかく巨人一辺倒、特に長嶋ファンであった。巨人が勝った翌日はすべてのスポーツ紙を買い込み、うれしそうに読んでいた。巨人が負けた時は、テレビのスポーツニュースでそのことが報じられると「この局は間違っているヨ、他の局にしてみよう」とチャンネルを変える、誠に愛すべき巨人ファンであった。長嶋引退試合が後楽園球場で行われた時のことだ。軍四郎は当時小学生であった長男の俊太郎を連れて後楽園球場に行くことを決意したが当然喜久子夫人は「何といって学校を休ませるのよ。馬鹿なことをいわないで」と真っ向から反対した。しかし軍四郎は「これを見ずして何が語れる、それを理解出来ないような教師は日本人じゃない」と俊太郎を連れて後楽園球場に出掛けて行った。残念ながら軍四郎は仕事の関係で会社に戻り長嶋のスピーチは見ることが出来なかった。後刻テレビの録画でゆっくり眺め一人涙したに違いない。


ゴルフのこと

営業局に配属された当初は決してゴルフは巧くなかったというよりも、むしろヘタであった。ある得意先とのゴルフコンペで大負けし、「アー、おれはゴルフには向いていないなー、もうゴルフは止めよう」と決意した時、同じ局に在籍していた慶応ゴルフ部のOB山元正恒に「根本さん、一度私と一緒に練習してみませんか、それでも駄目だったら止めたらいい、とにかくやってみましょうョ」と一本黒い線がかかれている厚い木の板を渡された。「この黒い線が消えてなくなるまで9番アイアンで打ちこんでください」との山元の指示に毎日一心不乱に9番アイアンを黒い線めがけて打ち込んだ。スウィングする際、頭の位置が大きく動いたり体の中心線からブレたり、ましてやヘッドアップしようものならクラブを正しくターゲットにヒットさせることは出来ない。山元は一早く軍四郎の欠点を見抜いたのだろう。

はじめの内は中々うまくクラブが黒い線にあたらず苦労したが段々と黒い線が削れるようになっていった。やがて数カ月が過ぎ黒い線が消えてくるころ「根本さん、そろそろラウンドしてみましょう。どんなクラブでもスウィングの基本とボールを打つリズムは全て同じですよ」と山元に云われ、こわごわコースに出てみると、何とハーフ50を切るスコアでラウンド出来た。その後は着々とゴルフに励みハンディキャップ10になるまで腕をあげた。

特訓の効果バツグン。ナイスショット!

常に広告主と共に

軍四郎は得意先に対する思い入れが半端ではなく、根本家の生活にもそのことは大きく反映されていた。根本家の自家用車は常に担当広告主の車でトヨタ担当時は同社が世界ラリーに使用した車をそのまま自分で引き取って使い、ボンネットに万国旗が並んだド派手な車で幼稚園に迎えにこられ子供心にも照れくさかったと長男の俊太郎は語っている。その後も自家用車は国産車で通し、外車は一度も使用したことがなかった。また、セイコーが当時人気のあった甲斐バンドの「HERO」をCM曲に使用した時は自宅で毎晩こぶしの効いた声で「HERO」を歌い、子供たちには「ザ・ベストテン」で甲斐バンドの状況を常にチェックさせていた。

三菱電機がマドンナの来日公演をスポンサードすることになった時は、背中にビーズで「M」をあしらった派手な黒いジャンパーを着用におよび自宅近辺を闊歩、動く広告塔の役目を見事に果した。家でビールを飲む時は当然キリンビール、乳製品は雪印と常に得意先の製品にふれ、理解することに努めた。家族は軍四郎の担当する得意先がその時々ですぐにどこであるのかを知ることが出来た。

次のようなエピソードもある。昭和43年~46年頃、自民党のイメージ・ポスターのモデルに根本一家が起用されたことがある。

自民党ポスター

当時は各政党共、多額な広報予算などはなく、制作費も安かったため、モデルもカメラマンが自ら探してくるような時代であった。そのような時に自民党のイメージ・ポスターに何らかの理由(いろいろ調べてみたが確たる事実は分らず)で根本一家がモデルに選ばれることになった。「私が3歳の時から7歳くらいまで、当初は子供は自分一人だけで、後で妹も加わり4人家族のポスターになったことを覚えています」と長男の俊太郎は語っている。最初のポスター撮影時、軍四郎が根本博中将の子息であることを知り「根本博中将のご遺族がわが自民党のポスターに出演してくださるのなら、是非ごあいさつしたい」と当時の自民党福田赳夫幹事長が撮影現場に現われ、俊太郎に二輪車が贈られたそうである。しかし俊太郎の話では「福田幹事長から大きな汽車のオモチャを手渡しされたことは覚えています。但し感謝状のようなものは見たことがありません」とのことであった。

いずれにしても軍四郎は四六時中得意先のことを考え、なんとか役に立とうと行動していた根っからの営業マンであった。そんな根本軍四郎を家族は心から支え、協力してくれたのである。

最後にくりかえしになるが、61歳という軍四郎の死はあまりにも早く残念でならない。元気でありさえすればさらに数々の功績を残したことであろう。彼のすぐれた営業マンとしての生き方が今後も電通社員の中に引継がれていくことを願うばかりだ。

心より冥福を祈る次第である。

〈 完 〉

(文中敬称略)

プロフィール

  • Matsuura chosya
    松浦 一夫

    1934年生。上智大学経済学部卒。59年9月電通入社、第3連絡局連絡部長、銀座第2連絡局次長、入船第3営業局長、アド電通東京社長などを務め、2006年退職。

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