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仕事という名の冒険No.4

静岡に発酵の権威に会いにいく

2015/08/27

絵/堀越理沙(電通 第4CRプランニング局)

 

前回は旅人の仕事観を持ち、まさに旅をするように業界から業界を、国から国をまたいで仕事をしているアクターの話でした。今回は技術者としての矜持に富み、真正面から自然と科学の交差点に向き合う人物の話です。


彼によると、発酵は自然のもたらす神秘だそうだ。
菌の働きによる変化。それは人工物を加えることもなく、自然物の作用によって進行するものだ。管理がとても難しく、自然であるがゆえの偶然性も宿っている。だから、その効果をきちんと管理できる状態をつくるところに技術が必要だ。

彼は常に「これは科学が自然をコントロールできるかどうかという戦いなんですよ」と言っていた。「ずっと続く戦いです」と。農学を学んだ人であり、農学はまさに自然との戦いにおいて、自然の力を畏怖しながらも、科学に何ができるかを問い続ける学問なのだと思う。

彼はそこに人生を捧げた人間として、じつに細かくじつに丁寧に管理をし、そして何をすれば味がどう変わるのかというデータをとりながら注意深く進めていく。「おいしいものをつくるのに、誰かが働いているんですよ、かわいいと思いませんか」と言う彼にとって、菌はペットのように愛情を注ぐ存在であり、時間をかけながら確実に仕事をしてくれる忠実な部下のようだった。

神は小さきところに宿るという。細部のコントロールを間違えると、発酵はまったく異なるベクトルで進み、まったく違うアウトプットになってしまう。味覚というのは曖昧なもので、自分の舌に自信がなければ設計ができない。その舌の感覚を信じ、感じるところの差異を認識しながら、味覚のイメージをつくる。彼と話をしていると、味覚には言葉で表現できない領域が広大にあることに気づかされる。

味覚を頼りにするということは、味覚を表す言葉の定義に敏感になり、適切に指標化するということだ。味覚設計者であり、農業技術者である彼は、つまりは地図をつくりながら、その地図に沿って旅を続けているようなものだ。

「職人気質」という言葉は使い古され、今はどんな職業でもこの言葉を聞く。僕は基本的にこの言葉の意味するところが好きだが、日常使われている「安易に妥協せず納得できるまでやる」という説明では、まだまだこの言葉の意味の一部しか伝えていないと思う。それではベクトルが一個人のなかにとどまってしまっているままだ。本来それが意味するところは、意識が自分の中にとどまるのではなく、そのプロフェッションのもつ歴史的・社会的意義にまで広がっているということだと思う。

自分が今このプロフェッションでやれているのは、先人たちがその前段階まで来ていたからというのが真実であり、その真実と向き合い、先人からのつながりのなかで自らをとらえられれば、そのプロフェッションのこれからの発展に自分がどう貢献できるかを考えることができる。

だから安易な妥協はできないし、日々の前進を余儀なくされる。職人気質が妥協しないというのは結果論でしかなく、本当に大事なのは、過去から現在という流れのなかにいることを知ることだ。先人のことを、そのまた先人のことをイメージする。そして、今自分は広がっていく水紋の一番外側にいるが、次にできる輪っかがより広く大きくなるように、と意識することだと思う。


次回は、イスタンブールのパンクに会いにいったお話です。お楽しみに。